芸術性理論研究室:
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11.10.2006

経験論の陥穽

 

支配欲と空虚な権威に執着した方々は決定を他者へ委ねなければならないために、あらゆる個物を超越していく地(面)を前提とした経験論を信条に設定します。実証は論述を必要とするとは限らないので往々にして自問することを忘れてしまい、いつの間にか科学と倫理が同義となったコードに埋没して、笑顔でサディズムを謳い始めます。科学が産み出す生物学的・進化論的倫理観では不可視のものを対象化できないので価値概念にすら意義を見出せず、表現や主張における審美眼が養わられることがありません。そのため他者の顔が見えない特殊な「公共空間」であるネット上で雑多な私事を公開し、都合が悪くなると誰の目にも写らない自己の心の苦しみを叫喚し始め、そこにある自己矛盾に気付きません。ヘテロノミーに依拠した強欲者達は自己肯定の前提に自他同一を含まなければならないので、自己の目の前で背信する他者の存在事実すら認識できず、いつもヒステリックか寡黙です。そのため密にレギュレートされた社会系をほしがる夢見がちなサイエンティストは個的概念の払拭をアジェンダにします。それを解決するために動因のインストール可能性を論証しようと粉骨するのですが、実の所この策略に通俗的な経験論は穴が開いているのです。このやり方では独裁者らが欲するモノなど永劫に手に入らないことでしょう。

あらゆる規範や原理を経験によって構成していくといった考え方は個体史を列挙することによって初期条件すらプログラム化することに成功し、古典的なブラックボックスに窓を設けることができそうに思えるかもしれません。それが真理ならば他者をコントロールすることも可能になるでしょう。しかし経験論者達はそれがブラックボックスでなくとも「ひとつ」と数えることができる個物であることを忘れてはいけません。

任意の座標軸に複数の個物が同時に位置できない以上、場を占有する実存在である私達は経験内容だけではなく、その契機までをすら唯一自身だけのものとしているのです。たしかに書物をとおしての経験のように等しく誰もが体験できる「部分」に限局すれば「同じ」といえるかもしれませんが、それを経験の全体をとおして主張できないのならば、個的概念を否定することはできず、開けた窓を自ら閉めかけることになるのです。

 

経験のチャンスは人為を超えたものです。私達はその絶え間ない契機に包囲され生きています。どんなに教育を強制しようとも、視点の非同一性によって個が産まれ、制御の網を免れていきます。緻密に条件を整えても、それが構造を成す以上、原的な同床異夢を無効にすることは不可能なのです。ここで経験論者達は観念論の招待を受けるか、手足を拘束するようなアイデアを選択し続けるかの岐路の前で立ちすくむことになります。

 

2006年11月10日
ayanori [高岡 礼典]
2006_秋_SYLLABUS