芸術性理論研究室:
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11.03.2006

美の所在

 

一般に美についての問いは価値や趣味の範疇内にあるものとされ「人それぞれ」のひと言で済まされてしまうかもしれません。なぜそれを美しいと感じるのか問われても上手く答えられないかもしれません。たしかにそれは個々人が抱く美の内容については当てはまることでしょう。しかし美の形式については議論や定義が可能ではないのでしょうか。それすら拒絶してしまうと美術教育や美術大学は不必要になってしまいます。そこでこのコラムでは「美」を再び議題化しておきたいと思います。

周知のとおり「美」の古典的な定義は「秩序」であり「調和」になります。与えられた批判材料に数列や系を見い出せた場合にその対象を美しいと呼びます。しかし截然性が美と同義ならば工業製品に取り囲まれている私達の測量された生活空間は美に圧殺されることになるのですが、事実はそれに反し無愛想です。どんなに緻密に計算され整序されたものであろうと私達は美しさを感じるとは限りません。金やダイヤモンドのような鉱物はその希少性によって一定の価値共有が可能かもしれませんが美的共有がなされているわけではありません。カット職人が周到な工夫をこらし、また貧富の格差をなくせたとしても「悪趣味」という俗語はなくならないことでしょう。特別に美しいと感じないものや醜悪と感じてしまうものの中にも秩序や調和はあるはずですし、逆も然りだと思います。では美とは何なのでしょうか。意味自体的な価値の種概念なのでしょうか。

 

もし美が価値規範のひとつならば、本有的かもしれない限界効用縮減の法則にのっとって前場面での美が現在・未来へと向かって低減していくことになり、不朽的概念を持ちえないことになります。ここで私達は感動の度合いがうすれても不変的な美がありうることに留意しなければなりません。一度それを美と認めたものは古くなり褪色し見飽きてしまっても美であることに変わりはないはずなのです。

これらの誤解の多くは美術教育における感性の無批判にあります。ポストエピステーメであろうとする努力を欠いた現行の美術教師達に「感性とはなにか」問うてみても「事実を知ること」以上の答えは返ってこないことでしょう。対象自体の経験を可能にしてしまっている方々にとって美は「既にあるもの」を意味するために人(作為)の介在理由がなく、美についての積極的な学知など聴講者に身に付くことなどありません。もし美が感性によって受容可能なものならば趣味の個体差などなくなってしまうことでしょう。私達は事実観察者ではなく見たものを観る者あることを忘れることはできません。つまり少なくとも美とは感じ取るものではなく、偶然的に見出す知的営為の結果なのです。

芸術家の多くは美をたよりに様々な作品をつくりタイトルを付けます。称することによって制度化された言葉では表しがたい『有意味な単語』を提示します。それは辞書からもれた意味を再びすくいあげ多数者によって固定された心の鋳型に拮抗することによってスタティックな書物を自律化します。美が何かは分からないかもしれません。しかし非科学的な美によって私達は他者へと向かいうる表現行為の契機や可能性を再び獲得・拡張していくのです。

 

2006年11月3日
ayanori [高岡 礼典]
2006_秋_SYLLABUS