芸術性理論研究室:
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10.30.2008
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-3.1
秋の形相
 

鳴けない蛍が、その身を焦がし終え、秋風が立つ頃、世界は豊穣の僥倖に喜悦します。木々は単調な葉緑を様々な色調へと変化させ、個性の主張を行ないながら自己の四肢をひとつ失い、子を宿します。生き残る多年草も、ひきかえる一年草も、彼方の土地へ嫁がせる衣装と道具を用意して、仲人を担う風や動物達へ、手段となる付加価値をプレゼンテーションします。形は物理へ、成分は生き物へ、美は人へ受け取られ、冬の意味をつくります。そして、多くの民が構造的現象でしかない共生に目を奪われている最中に、芸術家達は親木に似た「ひとつの死」を迎えます。

種々の実りが秋に集中する理由は、秋が夏の次場面に位置するためです。夏の暑さが秋のエイドスとなり、散在するヒュレーは「いつの間にか」構成され、その盛りに巣穴から顔を出します。「暑さ」は身体構造を活性化するため、連続的に流れていく循環を生命として捉える認識域には『冴え渡る生』を誤読しやすく、夏は芸術家達にとって制作の季節となる場合が多くなります。流れる汗、補給する水分、理由のない動因は手足を動かすだけではなく、心の前で扇動と誘惑を繰り返し、委ねる瞬間にコンセプトは加速度を増していきます。水しぶきと戯れる歓喜の声は彼/彼女らにとって騒音となり、暮れても背後天頂から纏いつく気怠さとともに夏の密室者達は制作に意欲を示します。そそぎこむ活動の終演は偶然的に秋と重なり、落葉だけではないプラトニックな垂直的流出の比喩を受けて、季節は“ fall ”という別名を誇ります。

そのため乳母を雇えない芸術家達は展覧会の運営に手を奪われ、オーディエンスの面前で知的連続性と寡作のディレンマを抱えます。芸術家にとって制作の最中こそが芸術活動であって、目的遂行である展示は消極的な作業でしかなく、生きいきと見える秋は「ひとつの死」として懐念されるのです。

そして、ここには当研究室が「芸術学」という言葉を使わない所以があります。芸術学者らにとって環境に位置する芸術作品こそが芸術かもしれませんが、芸術家達にとって芸術は自己を律するドライバーを意味します。作品はあくまでも生/システムの残滓でしかありません。思想伝達という遂行場面は、期待・憧憬の底辺でよじれながらもたげるのみにとどまります。作品という結果を第一契機として、叙述自体に価値を見出す行動科学的手法が「芸術学」だとするのならば、それは芸術家達にとって何の役にもたちません。芸術家は「作品へむかう」もしくは「作品へむかうかもしれない」であって、「作品から」ではありません。そのため芸術学という観察記述は芸術家達の前に壁をつくり、つくれない評論家・学芸員・鑑賞者・政治家を育てるのみのパワーとなります。

私が多摩美術大学の学生だった頃、錚々たる顔ぶれによる名ばかりの講義を受けさせられました。しかし何の直感も得られない不毛な時間だけが記憶に残っています。それは講義の基本態度が芸術学であったためなのですが、任意の作家の前例を具体例とした論考は芸術家を育成できず、噛み合ない関係・論なきゲマインシャフト・排他的なインフォーマルグループを公的構成するだけでした。「作品から」ではなく「心から」始まり、口火を自ら切れる芸術家へ開眼の契機を提供する目論見で、当研究室HPは形而上学を主体とした「芸術性理論研究室」として2005年に開設されたのです。

今年の秋も多くの展覧会・ライブが催され、多くの方々が多くの実りに触れることでしょう。そこには新しい概念確保と見たことのない疑義が並び、黙する作家も滞在しているはずです。夏の漲りを前にして、作家は仮死に虚ろかもしれませんが、不可解なことは遠慮なく尋ねてみることをお勧めします。その作家が代弁者・デザイナーではなく表現者・アーティストならば、微に入り細に入り、芸術家と鑑賞者の「間隙」ではなく、非連続の乖離関係を跳躍する架橋の「ことば」を提供してくれるはずです。

 

2008年10月30日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008