芸術性理論研究室:
Current
10.27.2006

厭世と最適合

 

個人自体は社会空間内に存在しえないために名義とともに芸術活動を企てる作家達は独自性という批判から免れないわけにはいきません。もしも社会という関係系の中に個人が流出できるのならば、特殊が普遍化してしまい名を特化する理由を見出せなくなってしまいますし、差異・独自性がなくてもかまわないのならば、個人名を無用とした組織的活動と変わらないことになり、ことさらに名を冠する必要などなくなってしまいます。ですから「個人/社会」といった対立の構図をとりながら世界へと臨む者達はその活動内容がある程度先行的に方向付けられることになります。一般論の再肯定で満足するのならば黙して福祉に勤しめばよく、名を付さなければならない表現理由にはなりません。つまりオリジナリティある表現とは「主張」を意味することになり、アーティストとは本来的に少なからず厭世主義を含み込むということになります。ここでの主張は供給活動を意味しません。足りないものを埋めていく行為は他者によって用意された目的へと向かう遂行性がある「作業」であり独自性に反するものです。主張とは社会に対して加算ではなく可能性の提供による拡張を意味することになります。厳密には他者自体ではなく他者一般を意味しているので「可能性(潜在性)」ではなく『蓋然性(前可能性)』による知的豊饒化と述べるべきでしょう。そのため個人による主張は既存から隔絶した臨在点からの発話になり、社会とは没並列的関係にならざるをえないことになるので作家達はペシミズムを内包してしまうのです。

多くの方々が自己の構成史において厭世主義を採択していた時期があると思います。自己と非自己がズレていく偏差現象に対して論述ある認識ができないために発生する葛藤を社会へと帰するひと言で慰めたことが一度はあるのではないでしょうか。しかし述べるまでもなく厭世主義はその排他性によって自己すらも失ってしまいます。閉じた完全なる「自由」は何も産出しないので、それだけでは原理にはなりえないものです。それ故に純然たるペシミズムには必ず末路があり自害があるのです。個と社会が相互背反であることに気付くと、それまでに構築維持してきた主義を諦めと楽観によって最適合へと一新しアドホックな生へと御自身を投げ出されているのではないでしょうか。代換として最適合主義を筆頭の起動産出原理に設定し、自己の安寧に満充していかれることと思います。そして言葉ひとつで突き崩される怯えた群れを組織していきます。なぜなら最適合主義とは心を排した構造主義によって作られた科学理論でしかないためです。自身の言葉を一切持つことなく事実・出来事に即していく隷従の行為規範を極めても没思考は『人類』を意味しないために自己の生を説明できない生物学者は人文学の前で無口にならざるをえません。これが「物だけが豊かになってしまった」という昔からある非均衡批判をくり返す論拠になります。

厭世主義は没産出性によって無能の理論であるかのように批判されてきました。たしかにそれは個を絶対化してしまうので反社会的でネガティブなものかもしれません。しかしそこで揶揄されている者は最適合主義者らのそれとは違い単に主義に犯されているだけの没人へ向けてのものであることに私達は気付かなければなりません。主義とは使用することによって道具化しなければ主義ではないのです。

 

主張活動が巨視的視野から始めなければならないのならば厭世主義を外すことはできません。それならば私達が第一に求めなければならない思想的段階とは拒絶を突破するポジティブなペシミズムであることはあきらかなはずです。

 

2006年10月27日
ayanori [高岡 礼典]
2006_秋_SYLLABUS