芸術性理論研究室:
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10.20.2006

芸術作品と意味論

 

見識めいた言葉を並べる修辞だけを身に付けてしまったキュレーター。一次評価と追従の区別を知らないエディター、ライター。児童らによる読書感想文以上を超えることのない乱暴な判断の量産と羅列。意味論を悪用した無意味の集合によって作品自体へ向かう視線を撹乱・拡散させ、有意味であるかのように作られたハリボテが現代の芸術文化の実態です。それは作家達を取り巻くブローカーだけではなく、作家を育成する無責任な教授・講師陣によっても伝道されていることです。意義なき発意だけのシニフィアンに社会的認知文脈によって飛躍した意味を帰属させ「芸術」などといった言葉を制度化・ドグマ化することに成功し、成長を抑制する温床を守っていくことにいかほどの意義があるのでしょうか。プレゼンらしい言葉もなく、常に評価を相対的にゆだねゆだねていくことが正しいとするのならば私達は学問の一切を必要とすることなく、その場の状況に対応するだけの機会論的な生を強いられるオブジェになってしまうことでしょう。

継続即価値は往々にして瞞着のテクニックなのです。

社会的意義とは単なる関係や交換によって発生するわけではありません。哲学知らずの経済学者や評論家に騙されてしまっては去勢された自己なき羊で終わってしまいます。アリストテレスは意味一般の潜在様相を描いたのであって意義について定義規定したわけでもなく、それらを同義として扱ったわけでもありません。彼は師の教えの全てに背いたわけではないのです。

価値に必然性が内属されていないように意義は遍在しているわけではなく自己吟味によって創られなければあり得ないものです。それを議論といった相互作用をとおして何らかの共有性を見出せ得るものへ審級変位した場合に初めて可能的福祉になるのです。ですからここでの共有性とは演繹でも帰納でもなく特殊を超えていく普遍の範疇になるので意義とは顕在ではなく他者の行為や価値を期待・予見する自己確信でしかないものなのです。そしてこれは作家が作品に込めるものと変わるところがありません。

ひとつの作品はその作家にとって自身の歴史を構成する要素ですが単位ではありません。仮にそれが最小の単位だとするのならば私達は如何にして一枚の絵を鑑賞すればよいのでしょうか。作家がいくつもの段階を経ることによって作品を仕上げる事実はそれがスティルや単一構造的なものであったとしても、パッケージされた有意味な総体であることを意味しています。さらに私達はそれ以上分割することのできないアトムやモナドなどといったものを概念的に指し示すことは可能ですが、認知─認識の過程へのせることは不可能なため『自体』を知ることも制作することもできません。ですから人の作為に無意味や空虚は本来的にあり得ないことになります。

芸術文化はいつからか芸術至上主義が第一的な牽引原理となり没思想的な似非作品を包摂してきました。芸術のための芸術などといった意味不明な同語反復をドライバーにして「芸術」を神化し反知・蒙昧を全肯定するような楽観と欠如を作り上げてきました。そこに篭城する彼/彼女らは作家と評論家といった並列図式によって定義項と被定義項を制作する役割を分担し、行為自体を可能にする者と思想なき発案者による群れを組織してきました。意図なき制作者、行為者知らずの弁論・詭弁家などといった法社会に反する職業制作は「芸術」を個人から集合態への目的因へと移動することを成し遂げました。結果的にそれは芸術文化・概念を人へと回収したかのように思えるかもしれませんが、そのブリコラージュ的な企画・構成によって「芸術」という言葉を殺すことになってしまっている事実に私達は気付かなければなりません。スペシャリストを要求する分業思想は労働場面においてのみ有効な規範であって、人の生の全体を代表する形容詞ではありません。偏屈な専門家が無害でいられるのは他者(夷狄)と関係することのない社会なき世界内のみでのお話しです。意図と行為を「独り」によって接続把持されたものを作品と呼ばないのならば、私達は自然と人工の営為を区別できなくなり、わざわざ「芸術」という術語を用意する必要などないのです。

そのため本来的な芸術家とはひとつの作品を構成する全要素(間)のニッチに対して、それが如何に意味限定的/前意味的なものであろうと説明の言葉を用意しています。それは決して未義的な白紙ではないのです。ですからオーディエンスは作品自体の意味内容やその思想的可能性を吟味批判する態度を第一にとらなければ作品を見ても観たことにはなりません。

 

2006年10月20日
ayanori [高岡 礼典]
2006_秋_SYLLABUS