芸術性理論研究室:
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10.14.2005

自己開示について

 

旧体制が崩壊し「個人」といった特殊形式が共有のものになると社会制御の原理は相互監視的なものにならざるをえないことは述べるまでもないことだと思います。自由経済による市場原理が社会の免疫機構を担うことによって消極的な排除と選択が間断なく実行され、社会の境界域は設定維持されることになります。しかし個人や自由といった概念を産出可能とする前提原理は排他的な自律性であるため他者を必要項とする他律的な経済といった社会形式だけでは参加─形成─維持へといたる動因の説明にはなりえません。外部入力的な誘因による理由の説明が有効ならば「個人形式」は発生することなく、未だに前フランス革命的社会構造の中に自己を省みることなく埋没していたか、もしくは自給自足がスタンダード化していたことでしょう。

インターネットが普及する以前より私達の世俗社会には頼みもしないのに自己の特殊内容を表現・情報化する現象が当然のように見受けられます。情報化とは他者からの観察可能な自己の制御可能性の提供であると同時に、他者へ他者自身の行為規範の提供でもあります。つまり情報化とは提供側の操作と被提供側の参入度によって構成される相互支配の契機といえます。

ここで留意しなければならない点は偽りの情報操作によって自己を保存したまま他者を支配できるとは考えられないということです。虚偽の情報による自己隠蔽は他者からのアプローチ、与えられる自己の行為可能性は暫定的な人格原理にしろ、第一的な認識原理にしろ、掬いあげることができないものであることが多いため、その際のコミュニケーションは有意味なものになりえません。システム論的には非選択項である環境の要素を組込まなければならないような局面に出会うということです。そこで相互確認の矛盾が起こることによって、真理値が整序されることになるのですが、ここからは理論どおりにはならないことを私達は経験的に良く知るところです。嘘つきの少年はいつかオオカミに食べられてしまいます。

 

統合の主体を総体化しなければならない私達の社会は自己を開示することによって相互作用を開始し、相互に監視することによって社会制御の系を構成しますが、自己開示は自己の行為可能性を含意する自己支配でもあります。現代における社会性とは自らを曝け出すことによって支配の網へ自身を投げ入れ、コミュニケーションをとおして正当化の根拠といった動因を確定化することによって自己を統合、運営する「相互支配による自己制御系」といえるでしょう。

私達は自らの自由を謳う時、自らの非自由をも謳っていることになる時代や社会に生きているのです。

 

2005年10月14日
ayanori[高岡 礼典]