芸術性理論研究室:
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10.06.2005

グローバリズムのリスク

 

概念と対象の峻別のない粗悪な認識論によって作られた経済原理が両者の非均衡化によって破綻を招くことは先験的に知ることであり必当然的なことです。何が無限で何が有限なのか知らない者にインフレやデフレを最適化することなど不可能なことでしょう。需要の原理となる心的システムに物的限定性がないからといって欲望は無限に産出、継続すると判断することは早計なことです。本来、心的システムは自己充足的な閉じた系であるため対象概念の拡大も縮小も自在に行うことが可能です。むしろ縮小することによって擬似的な境界化を行わなければ自己制御ができないため、意志を前提とした法社会で生きる私たちは欲望の縮小こそが潜在的な共通使命となります。これが例えば「限界効用縮減の法則」の論拠のひとつとなる原理なのです。

欲望は無限であるといった誤謬に支えられていた時代はその担体である「消費者」を探すことが不必要だったために保身的なナショナリズムによるインターナショナリズム(国際化)で見せかけを維持することはできました。しかしデフレが慢性化した現代では、如何にして消費者を確保するかが眼目となるためグローバリズム(地球化)が謳われることは周知のことです。ここでかつて頻繁に叫ばれたグローバリズムが流行のように終息してしまったかのように見える理由を再確認したいと思います。

まずインターナショナリズムとは確かな国家形式を前提とした自他のコミュニケーションによる自己保存的かつ相乗的なヘテロノミーを意味します。そのため他者の尊重もあれば「敵」を作り出してしまうことにもなり、「勝ち」もあれば「負け」もあることになります。それに対してグローバリズムとは国家形式を必要とするとはかぎらない非境界的な統一原理になります。ここでは『人類』といった普遍概念が最少かつ最大の単位になるため国家やナショナリズムは排除されなくてはなりません。そこから様々な文化破壊が行われ、準拠としていたエスニシティーが無効化されていく一方、グローバリズムによる戦争は制裁や侵略ではなく警告が目的になるので、ジェノサイドは見られなくなり、供給物を消費するに必要な教養や技術を訓育ではなく垂訓・伝授し、敵ではなく「身方」を作り出す相利共生がアジェンダとなります。

インターナショナリズムは国家間の競合による軋轢によって容易に愛国心といったインシュラリティーや他国への憎悪を産み出します。自国を維持するために敵を育て憎悪の連続拡大が社会的に行われてしまいます。これはインターナショナリズムが境界性による原理であるため不可避のリスクなのですが、ここでグローバリズムが非境界的であるからといって、それがインターナショナリズムを超えた万能主義・完全理論とすることは誤りなことです。

多くの経済学者や経験社会学者による理論批判は科学的態度に終止してしまうため、哲学的問題を不問に付すことによって、あいもかわらず独裁的な新しいアンシャンレジームを作り出すとしか思えないアイデアしか提供してはくれないのですが、そもそもグローバリズムとは事実化は素より把捉的な認識すらできない形式概念に限定されたものでしかないのです。

私たちが幼年期を脱し、社会性を獲得する際に自己産出する重要な構成素集とは他者一般といった概念なのです。これは特定の誰か、その『他者自体』を知ることではありません。平易に述べるなら自身の心に他者を創り出すということです。「わたしは他者そのものを知ることはできないけれど、おそらく他者はこうであるだろう」といった、ささやかな想像力による、ささやかな思いやりや気遣いによって自己の行為を操作決定するための自己参照する枠組みや動因を自己獲得することです。

この原理に従う私たちがグローバリズムを運営すれば、こんどは敵でも身方でもなく「裏切り者(逸脱者)」を作り出すことに懸命となることでしょう。これは如何に自己と他者を共に否定するかが目的となった社会を形成することになります。インターナショナリズムによる憎悪は現前する他者へ向けられるため集団が異なれば、その対象から程度(内容)まで異なります。それは局所的で限定的なので人の命や時代の経過とともに消えることがあるかもしれません。しかしグローバリズムは概念と非概念を同一とした普遍原理によって、地球規模で憎悪を永続するものとして産出していくことでしょう。

 

2005年10月06日
ayanori[高岡 礼典]