芸術性理論研究室:
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10.02.2008
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-2.10
ハイパーメディア
 

以下は毎期末に用意する余談です。当研究室の本分から外れた前学芸になります。ご注意頂ければ幸いです。今回は制作者を目指す者へむけての言葉であって、被伝達者を賦活するものではありません。

 

経済原理の存在自体に対して無謬であろうとする「気楽さ」を取りあえず横に置いてみると、同じように就職活動に勤しむ学生の中でも職業選別の段階で優劣が見えてきます。少しでも先見力があるのならば、「商品」を取り扱う企業・メーカーへは、説明会すら行かないことでしょう。「なんとなく物が売れない時代だから」という論のない事なかれで選ぶ方も多いでしょうが、この審美眼には妥当性を見出せます。「物は有限である公共空間を占有するが故に、共有せざるを得なくなる」だけではなく、インターネットの拡充によって「データー化できるもの」は最初の“ torrent ”を流し込む者以外は、誰もが無料で入手することが可能であるためです。そこで著作権思想を持ち出して身の保全を謳うは、「殺人は非合法であるため、私は殺されることがない」と思い込む幼稚さと大差ありません。「盗める=もの」はいつか誰かに盗まれます。それが「嫌だ」というのならば、誰とも関わらない生活を送るか、「盗まれない/盗めない」職を探せば良いだけです。そしてここには表現の本来性がひとつ垣間見えます。

現在、先端に位置付けられる商業芸術家=少なからず「純粋表現者・アンチソフィスト」であろうとする自負がある者ならば、プラスティックとアルミニウムでできたCDや、紙でできた書籍などといったプロダクトを利益追求的に売買することはないでしょう。伝えたいが故に表現しているのなら、その流通手段を小売りからネットによる無料配信中心へとシフトしているはずです。音域や筆致の再現が限定されてはいるものの、音楽や文章、映像や絵画・写真といった芸術作品はデーター化可能であり、かつデーター化されたとしても、その本旨を損なうことなくオーディエンスの手元へ送り届けられます。しかも一度データー化されたのならば、そのデーター自体は劣化することなく複製が可能なので、部数限定のCDや書籍以上の伝達力があることは述べるまでもありません。

経済的な相対性にしろ、個人・帰納的な絶対性にしろ、価値を構成する条件に希少性は必ず含まれます。そのため、それが「純粋表現」であったとしても、限定性がつきまとい、公開が困難でした。オーディエンスがその作品を鑑賞するには多くの時間・労力・私財を使わなければならず、芸術家の想いは「伝えたい人や読解できる人」ではなく、「経済的・時間的に余裕があるだけの人」を吹き溜まりとしてきました。また、そこを悪用することによって純粋芸術に打算を含ませる勘違いの輩が現れ、不純の一途を辿らされてきたのですが、インターネットによって私達は本物と偽物(者)が分かるようになると同時に、「買って売る」から「盗んで捨てる」時代・本来的な人の知的営為が可能な時代になりました。

 

しかし、すべてのオリジナルがネットメディアへと変換できるわけではありません。味覚や臭覚を必要とするもの、見当識のすべてを使わなければ鑑賞できないマシーンオブジェやインスタレーション等は未だに「会場」や「実物」から免れられず、希少という枠の中で爪を噛み続けています。ライブはハイパーメディアであるため、絶対希少=唯一性が守られ、オリジナルとオリジナリティを区別しないタイプのアウラ主義者には格好のサロンです。それは盗めないが故に「金」になり、複製できないが故に表現理由への懐疑の的になり続けています。

 

果たしてそこに「アーティスト」と呼ばれるべき者は、一体どれだけいるのでしょうか。

2008年度夏期 ─了─

 

2008年10月2日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008