芸術性理論研究室:
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10.01.2009
REQUIEM '04 - '09
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人が「人の死」を悲しむために、特別な手続きなど不必要です。人が「人の影」を偲ぶために、仰々しいイコンなど、目障りな侮蔑にしかなりません。ひとり自室で思い出をたぐり寄せるだけで十分です。その人の顔かたち、振る舞いや仕草、においや声、かけられた科白や、乗り越えた日々を思い起し、それがもう二度とないことが、どれだけの可能性を断裁し、浮遊させているのかが理解できれば、人は、はらはらと涙をあふれ落とせるはずです。

しかしこれはとても難しい技術です。知覚は経験した刹那に器官から消え失せてしまい、フィードバックや表現は、最早第一場面での経験内容を蘇らせてはくれません。どんなに認識の力を駆使しても、『におい』は鼻腔を通過せず、『声』は鼓膜をふるわせず、『姿』は光になりません。残存する『他者の系』は次から次へと行為規範を整えはするものの、従う余地がないため、可能性だけが満開していきます。

忘却とは何を失ったのでしょうか。想起とは何を思い出しているのでしょうか。無限創造など、幻想の社会を生きなくてはならない者にとって「真理の欺瞞・絶対正しい嘘」にしかなりません。

『私はあなたにもう一度会いたいと思います。叶うなら誰か私を無限にしてほしいとさえ思います。そうすれば、逝ってしまったあなたを追いかけることができる。そうなれば、あなたが私を愛してくれたように、私は、あなたから私を愛することができる。あなたが感じたように世界を捉え、私が想う世界を寸分違わず、あなたに知ってもらうことができる。でもきっと、そうなった時、私は彼岸のあなたを此岸へ取り残し、あなたを感じながら私を失ってしまうことでしょう。閃光を追い越し、光となって、ふるえを掬い取るは、描写原理なき世界そのものだから。』

なぜあの時、呼んでくれなかったんだと思います。病床にあることだけでも教えてくれても良かったのにと、未だに責めたく思います。突然的に保存選択させられる「選択不可能な可能性」は、迷惑以外のなにものでもなく、絶対壁の前で項垂れるしか術がありません。「なんで、お別れの挨拶をさせてくれなかったのでしょうか。一人で死ぬなんて、独りで死なれるなんて、寂しすぎる。せめて、その一瞬に、あなたの系を停止させてくれれば、こんなにも齟齬を抱え込むことなく、こんなにも泣き続けなくても良かったのに。あなたが、ちゃんと断ち切ってくれなかったから、経過が理解の強度を代行し、時が経てば経つほど、涙が止まらなくなります。」

システム論の初歩を待たなくとも、中世の選択原理において、誰もが後悔して生きていくことに納得させられます。選ばなかった・選べなかった選択肢は可能性としてストックされ、やがてそれらが外部時間との相対的関係によって選択不可能となり、後悔として心奥に寄生し続けていきます。それは排除の矛先が向いているにもかかわらず、取り除けずに残存し、忌むべき自己の部分として、曖昧な自他の区別、否、アンビヴァレントになります。それは閉じた自己の系の中で「イケニエ」を超えた動因となり、私達の日常を無限に突き動かす助力になります。後悔の数は過去の自己存在の証明であり、それは次回の行為の可能性を新たにつくる「可能性」なのです。

 

当研究室HPは、美術家を中心にした芸術家一般へ贈る体裁をとっておりますが、開設者の心情には「亡き師へのレクイエム」を全編に奏でることがコンセプトになっています。毎年卯月の命日には、特別のコラムを追加更新してきましたが、本年度は一身上の都合により、それができませんでした。そのため、本年度の期末には贖罪のエッセイを書き加えていきます。

 

心には前もなければ後もない。ただ臨み在るのみ。

2009年度夏期 ─了─

 

2009年10月1日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2009