芸術性理論研究室:
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09.28.2005
10.27.2005_Update_頂いたコメントを下段へ追加致しました。[COMMENT]
 

美術大学は存在するのか

 

美術や芸術を外部から観察している方にはその奇抜さや難解さに脅威・畏敬の念を抱くか、逆に敬遠するかだと思います。また「絵が描ける」ということがいまだに特有な能力として有効性を保持しているので、美術大学を卒業し「人並み」におとなしくしていれば、あらゆる職業分野にへつらうことによって何の苦もなく社会的権威や様々な保障を得ることができることでしょう。

しかし現行の美術大学(生)への評価とは妥当なものなのでしょうか。美術の専門教育を受けたとされる者達に対する外部/内部記述は両者とも美術を対象化することが上手くできているのでしょうか。

結論から述べると、今も昔も美術(芸術)大学は『芸術』をエピステーメとして定義することなく行われているため、技法や演出のメソッドを訓育する技術学校でしかないものであり、美術(芸術)を総合的に分析・研究する大学などと呼ぶにはお粗末なものでしかありません。私が美大の受験生だった頃、大学ではその作品が指向する思想的可能性についてドラスティックな議論が取り交わされる場であると思っていました。しかしいざ「美大生」になってみると、そんなものは少しもなく、そのかわりに作品が目的になっているような片手落ちの方々が待っているばかりだったのです。そのため作る理由を見出せず義務教育的な受動的態度に徹する方もたいへん多くいました。

述べるまでもなく、作品とはソシュール的に「表現するもの」と『表現されるもの』との複合化によって、初めて「作品」といえるのですが、そんな基本的確認すら期待できない幼児施設だったのです。

人文系のディシプリンを受けた方々は芸術サイドからの幼稚な戯言に辟易されていることと思います。またその幼稚さ故に作り出される発話の契機によって悪しき低俗な人文学者の駘蕩が後を絶たないことにも厭悪されていることと思います。驚かれるかもしれませんが、現行の芸術教育において他者創造的な評論家による講義はあっても、自己創造的な哲学の講義など皆無なのです。そして学生たちもそんなものは必要とせず、他者を知ることの真意を知らず、読解力らしい読解力もなく、「自分しか知らない自己知らず」の群れを形成していたりするのです。

 

芸術家とは芸術家以前に哲学・思想家であり、作品とは素材の集合ではなく、意図や作意を志向する手段であって目的ではないことを知らない者に芸術文化に携わる権利も、言及する権利もないのです。でなければ芸術家は永劫に『選び、創る者』ではなく「選ばれ、作らされる者」から脱却できないことでしょう。

 

2005年9月28日
ayanori[高岡 礼典]

 

 

 

COMMENTED BY vel さん

私も同感です。

私の場合は、美大に入る以前に、普通大学で、歴史学を専攻してましたので、おっしゃる事は痛感します。「芸術家とは芸術家以前に哲学・思想家である」というテーゼは予備校時代から認識していました。

ま、私の場合デザインという、芸術というよりは、職人的な観点から、美大を指向していたので、自己の中では矛盾はあまり、ありませんでしたが。でも、デザインの習作を制作する過程で、まづ大切なのは、芸術と同様に、習作を制作する前に必ず、デザイン意外の事、つまり「哲学や歴史や様々な事を思考する事は、制作よりも優先させていましたね」。

故に、大概の美大生が多様な学科の授業に興味を示さない事実に不思議でした(まぁ、私の場合年齢も上だったので、20歳の若い学生が興味を示さないのも、普通大学と同じで、無理の無い事かな、とは、微笑ましく、感じていましたが)。

結果、当然、芸術学科の授業を結構、受講していましたね。それで、なんとかバランスをとっていた感じでした。

 

RESPONSE FROM ayanori[高岡 礼典]

「絵が好き」「作ることが好き」は美術(芸術)を志す理由としては不純だということを共通の了解にしなければ、この先もずっと美術(芸術)の領域の確立なんて出来ないことでしょう。
視覚上位的な経験論による「芸術」描写はどこまでも構造限定的な勝手な言い分で、けっして『芸術家』自身を含むことがありません。三流の批評家なんて『芸術家』を含意すらしていません。
ところが、芸術家による「芸術」描写は『自身』を必要条件として含むので両者の批判内容は接点すらないような「共約不可能」な関係が続いています。
往々にして芸術家と名のる者にまともな教養なんて期待が出来ないので「都合のいいコマ」になって終わってしまうのが古来より続く実状です。

ここで、コマになって終わった後に待っている世界が現在あるような 「日本画」「油絵画」「彫刻」「建築」「デザイン」などといったマテリアルによるカテゴライズです。
他者は作品を第一に見るでしょうが、芸術家は第一に『自己』を見るので、あてはめようのないディレンマにおちいります。どさくさ紛れに捏造されたこの選択圧を打破するために、美術(芸術)を志す方々へ基本的な一般教養を勝ち取る契機を賦与するために当研究室は開設されました。

 

COMMENTED BY vel さん

結局、経済活動に、色々な分野の事や人間の人生が飲み込まれているだけだと思います。だから、本質を追求しようとする者は、マイノリティーだし、マジョリティーというのは人間が歴史上、経済活動(特に、貨幣経済)をやり始めた時から、一部の権力者の為の奴隷に成り下がった者として現れたのだと思います。それは、地球上の資源や食料と人口のバランスが崩れた時から始まっているのですよ。

そう言った意味では、現代の様にあまりに複雑・過剰になり過ぎた時代では、自己にのみ対峙するという姿勢は非常に困難だが、意義のある事だとは思います。

でも、現実は、飯も喰わなきゃならないし。でも、経済活動の発展のみの為に人間は生きている訳じゃ無い。経済活動の奴隷になってしまったら、それは活きる事を放棄した事に等しいと感じます。死んだ方がマシかもしれないとも感ずるが…!?こりゃ、人間の半永久的な命題になってしまったのです。故に、せっかく、人間は五感を持っているし、多様な技術も持っている、それは、どんな分野であろうが現実に存在する。つまり、そういった人間の能力を刺激し、第6感や直感といった、かつて、太古の昔に持っていた能力を復活させ、テクノロジーと融合させて、人間がこれまでの人間より、崇高な次元のニュータイプ(ガンダムっぽっくって嫌な好きな語感ではないが)に目覚めなければ、人間は永遠に、競争し殺し合い、堕落してゆくのだと思います。「現代人は進化している」と、よく人々が口々にしますが、私はむしろ「退化している」と感ずる事も多いです。

一部の経済活動を優先させて、マジョリティーを奴隷のように、こき使う経済第一主義の奴等の思考回路とは、真逆なベクトルですよ。人間の進化に対しては、何ら役に立っているどころか、妨害行為をしているに過ぎません。ITとか、何とか言ってる「ホリエモン」とて、同じ人種ですよ(しかし、あいつ、センスのかけらも無いねぇ、W!)。

 

RESPONSE FROM ayanori[高岡 礼典]

後半の「経済活動」自体のご批判はまったくそのとおりだと思います。それ自体に限定しなくても社会的文脈即意味的な倫理は人の性を描きませんね。「そこ」に文脈があるからといって意味を関係化できると考えることは80年代構造主義(殊にレヴィ=ストロース「野生の思考」あたりに感化された方々)が作り出した幻想です。

経済原理は述べるまでもなく普遍概念に包摂される第一原理ではありません。それは特殊へと配分される第二・第三原理です。ある歴史や社会に偶然に付帯する「あるかもしれないし、ないかもしれない」ようなものです。私も若い時はアンチコマーシャルを謳いましたが、経済原理を批判対象の筆頭へ祭り上げても、埒が明かないというフェイズをむかえています。それは前提が豊か過ぎて私(達)にはもうアクチュアルなリアルではないんです。

信じがたいことですが、古来より経済原理によって設定・産出されたコードは学問分野にまでも侵食しています。「流行る/流行らない」「好き/嫌い」などといった論証可能な『意味』を度外視した排他選言による批判が当然のごとく行われています。それは反論理的な俗語であり、自らの無知蒙昧を曝すことであるにもかかわらず。

なので、前半部分の「飲み込まれているだけ」といった余裕やペシミスティックな楽観は理解(満足)できないものがあります。私達は有限ですから、パレート最適を実現して経済を抹消しても認識理論や行為規範への接続法が変わらなければ変わらない明日が待っている筈です。

 

 

COMMENTED BY さかもちみちる さん

ジャンルは違えど、そのように考えるというのはすばらしいですね。ボクは工学部のなんたるかなんてほとんど考えたことないですから。まーボクはどのジャンルにせよ、100年に1人の天才が出てくればいいんじゃないかと思っていますが。たとえ話ですが、フォン・ノイマンのおかげでボク等はご飯を食べて行ける訳ですし、100年後に生まれたフォン・ノイマンが困らないように多少の進歩を含む現状維持を行うのがボクの役割なんではないかなー、と。工学の目的とボクの役割がごっちゃになっていますが、別にパラダイムシフトの向こう側を目指していなくても、ボクやその他大勢の工学系出身者は工学に携わっていると言えるのではなかろうか、と(自己弁護?)。じゃあ誰が100年に一人の天才になるのよと言われたら、その辺はまぁこの、ボクは他力本願寺の檀家なのでムニャムニャ・・・

ただ、ちょっと気になることが
>あらゆる職業分野にへつらうことによって何の苦もなく社会的権威や様々な保障を得ることができることでしょう
うちの会社にも製品デザインのために芸大卒の同期がいたりしますが、やっぱりそういう人って多くの芸大の人から見たら「野に下る」ってレッテルが貼られちゃうものなんですか?研修生時代にそんな話を聴いた覚えがあります。

 

RESPONSE FROM ayanori[高岡 礼典]

工学部はその語りはじめの冒頭に「経験科学」という截然とした自己の領域確保が行われていますので、無理に「なにが」と問う必要はないかもしれません。しかし芸術は演繹可能/不可能なもの両方を扱わなくてはならないため自己(芸術領域)の区別が困難なんです。そこで曖昧が曖昧を呼んでいまだに曖昧模糊な状態にあるのです。そのため他の学問分野では当然の倫理観が芸術には無かったり、また導入すると逆に困ったことになってしまったりします。たとえば「現状維持」といったレベルでの伝承や研究は芸術家自身を含まないので必ずしも良いことで終わりませんし、『引用』という概念も『剽窃批判』のほうが強いので、自己を知るために大切なことなのに無いに等しいです。自説を主張したいのなら自説だけ唱えれば良いと本気で思っているような知劣な群れですよ。

そんな状態ですから「100年に一人の天才」を設定して擬似的にこの分野が「ある」かのように見せなければならないといった奸計が止まらないんです。

>そういう人って多くの芸大の人から見たら「野に下る」ってレッテルが貼られちゃうものなんですか?
その方が貼られるか貼られないかはわかりませんが、大学(学問)は本来、社会の前提ではないので、大学を卒業してその後、商人だけの人になったら、だれもが貼られてしまうのではないでしょうか。