美術や芸術を外部から観察している方にはその奇抜さや難解さに脅威・畏敬の念を抱くか、逆に敬遠するかだと思います。また「絵が描ける」ということがいまだに特有な能力として有効性を保持しているので、美術大学を卒業し「人並み」におとなしくしていれば、あらゆる職業分野にへつらうことによって何の苦もなく社会的権威や様々な保障を得ることができることでしょう。
しかし現行の美術大学(生)への評価とは妥当なものなのでしょうか。美術の専門教育を受けたとされる者達に対する外部/内部記述は両者とも美術を対象化することが上手くできているのでしょうか。
結論から述べると、今も昔も美術(芸術)大学は『芸術』をエピステーメとして定義することなく行われているため、技法や演出のメソッドを訓育する技術学校でしかないものであり、美術(芸術)を総合的に分析・研究する大学などと呼ぶにはお粗末なものでしかありません。私が美大の受験生だった頃、大学ではその作品が指向する思想的可能性についてドラスティックな議論が取り交わされる場であると思っていました。しかしいざ「美大生」になってみると、そんなものは少しもなく、そのかわりに作品が目的になっているような片手落ちの方々が待っているばかりだったのです。そのため作る理由を見出せず義務教育的な受動的態度に徹する方もたいへん多くいました。
述べるまでもなく、作品とはソシュール的に「表現するもの」と『表現されるもの』との複合化によって、初めて「作品」といえるのですが、そんな基本的確認すら期待できない幼児施設だったのです。
人文系のディシプリンを受けた方々は芸術サイドからの幼稚な戯言に辟易されていることと思います。またその幼稚さ故に作り出される発話の契機によって悪しき低俗な人文学者の駘蕩が後を絶たないことにも厭悪されていることと思います。驚かれるかもしれませんが、現行の芸術教育において他者創造的な評論家による講義はあっても、自己創造的な哲学の講義など皆無なのです。そして学生たちもそんなものは必要とせず、他者を知ることの真意を知らず、読解力らしい読解力もなく、「自分しか知らない自己知らず」の群れを形成していたりするのです。
芸術家とは芸術家以前に哲学・思想家であり、作品とは素材の集合ではなく、意図や作意を志向する手段であって目的ではないことを知らない者に芸術文化に携わる権利も、言及する権利もないのです。でなければ芸術家は永劫に『選び、創る者』ではなく「選ばれ、作らされる者」から脱却できないことでしょう。
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