芸術性理論研究室:
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09.27.2006

固有名詞について

 

名前とは私達が『人』になりうるものとして産まれた後に初めて自分のためだけに創られ用意され与えられたギフトです。それは支配・制御だけの目論見で制度化されている「姓」とは意味を異にするものです。エスニシティーは有意味な総体として否応なく帰属させられますが、名は本来的に無意味なものとして「個の生」を約束してくれる社会との紐帯です。仮に何らかの別の意味が既にあるものであったとしてもそれが個人を同定する「名前」として機能するには与えられた者が自身を指し示すシニフィアンとして主張し続けることによって独自の意味を創造し社会的認知を企てていかなければなりません。名の意味とは命名する場面にあるのではなく、それを有する者の生の全体にあるのです。もちろん出会う者との部分的関係も相補的にそれを担うことになります。

そのため私達は愛する者を名で呼びかけ、それに応答する相互作用の繰り返しの中にコンサマトリックな認識現象を産み出してしまうことになります。姓や公的関係をあらわす肩書きによる呼びかけは個人の背後に潜在する誰もが知ることができ、かつ恩恵を受けうる社会的権威を喚起させることになるので、相手の素性や人格を知らなくとも普遍的なアプローチを可能にすることができますが、個の尊重を見出しにくくなります。普遍は共有できますが特殊にはそれができないために、姓はゲゼルシャフト的で名はゲマインシャフト的な没位階秩序なのです。ここで西洋思想にご興味のない方はエーコの『薔薇の名前』をご存じならば、主人公の「アドソ」が名前を知らぬまま愛した彼女と別離してしまった場面を想起して頂くだけでかまいません(*)。「彼/彼女の名前を知らない」は擬似的ですが「彼/彼女を知らない」と同義の心的現象を産み出すことになります。

(*)ウンベルト・エーコ[1980]「薔薇の名前」下(河島英昭訳) 東京創元社1990 242頁。

上記は中世キリスト教思想における唯名論(ノミナリズム)にバイアスをかけた異文・要約です。普遍を語源にするカトリックの信者達は「普遍と特殊」を存在論的に区別することによって神の超越性を論述しました。「プラトンやアリストテレスなどといった名前を持つ者は存在するが、哲学者や聖人、人間などといった普遍概念を代表する者など存在しえない」といった説明です。類は種の述語となって、あらゆる個物を超えて自らを普遍化するのです。

そして私達は自身が名前を持ち、また名付けられうる存在であることに気付く時、真理なき無力を受容し成長しうる自己に歓喜することになります。名を名乗る行為は自己の発言を妥当なレベルへ去勢することに成功し、名前による呼びかけは相手をひとりの人として認めると同時にどこかにマニュアルのあるコミュニケーションを無効・除外して、その後の関係内容に意義を賦与する契機になるのです。

 

2006年9月27日
ayanori[高岡 礼典]
2006_夏_SYLLABUS