芸術性理論研究室:
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09.11.2008
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-2.07
献辞 ボエティウス
 

その祖述から遠くかけ離れてしまったものの、もしも彼が『それ』を「彼女」と呼ぶ謎を残してくれなかったのならば、現在の私に「経験」から『形而上』へと落とし込んでいく論法のスタイルも、誤読を許す余剰もなく、きっとドラスティックな観念論や独我論ばかりを並べ満たし、排他による絶対的な自己肯定を展開していたことでしょう。不変の心をつくり、「他」へと手を伸ばす徳のすべてが没化し、向上なき「慰め」に沈潜していたか、もしくは逆に、状況によって決定されてしまう克己なき生を構成していたはずです。

現代において彼は「誰もが知る名前だけのもの」になってしまったかもしれません。それは当研究室にとってもさほど変わらないことなのですが、常に私の念頭に潜み、賦活を受けていることは告白しておかなければなりません。いつの時代にも不遇の英雄を求める『情』は、いたる箇所で認められることと思います。活動の場を奪われ迫害され焚書に処せられる美術家や文学者は、無個性の扱いを強いられる民の勘違いを銷沈させるには都合良く、たびたびプロパガンダ(制御プログラム)として見かけられるのですが、その多くが彼に比べれば、よくある些細な出来事でしかありません。現在の私には強制された死を面前に置かれ、それでも論文・作品をひとつ仕上げる力量などありませんし、不自由の下で自由意志と決定論を包摂し、実践へと誘う「第五部(*)」を用意する気丈など持ち合わせておりません。彼は一方的な反逆罪によって刑に処せられたと伝えられているので、その「慰め」は絶対的自己肯定などではなく、自身へと刃をむける者達の自由意志をも守り、拮抗自体を受け入れつつ525年をむかえたと理解できます。

(*)ボエティウス『哲学の慰め』(畠中尚志 訳) 岩波文庫1938 202頁以下。

ここにニーチェのような狭い「慰め」はありません。ボエティウスの「慰め」は純なる知や心への野心であり、その内容は相互排他の許容へまで及びます。決して他者を否定し、自己の弁明だけに徹することなく、素朴な淵源へと臨んでいく態度には『深化的向上』と呼ぶべきふさわしさがあります。

ひとつの系はひとつの取捨選択の軌跡を描くので、ひとりの人の生には半必然的に他者から始まる自己否定の場面があります。それは明文化しがたい『苦・反動因』となるので、私達は様々なカタルシス・動因の再構成を模索します。しかし『苦』そのもののみを取り除く環境黙視という方途・デトックスは、世界内存在から「世界と内」を取り除くことであり、自己の没化を意味してしまうので、ニーチェ的判断には普遍的な妥当性があります。ここで採択すべきは批判的な全許容による耐性・「それでも進んでいく力」です。プリゴジン的な苦の理解によって不可逆な生に粘性・反省をつくるだけではなく、許容によって他者をつくり、他者を知り、『苦』の発生理由をもつくります。それは肯定・否定を超えた会話の可能性となり、現在状況を即有意味化してくれることでしょう。これが当研究室におけるボエティウスの「慰め」になります。

 

私の哲学には神も、普遍の摂理も、無意識すらもありません。根源に潜む自我は掌握不可能であろうと、無限接近可能なものとして設定されているので、没決定の茫漠にまどろむ自己が原初の像になります。そこで批判すべきは不動の主意主義ではなく、無謬の芸術性信仰です。

彼は『神』を信仰し、『人』を認めました。私は『人』を信仰し、『神』を語りません。異端である私を彼は忌避することでしょう。それでもなお私が彼の『心』への口づけを止めぬ理由は、ひとえに透徹した遺志のきらめきにあります。すべて奪われようと、打算なき行為を継続する姿に表現の純粋性を見出さずして、いったい何に芸術の美しさを感じ取れば良いのでしょうか。

 

2008年9月11日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008