芸術性理論研究室:
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09.10.2009
魚の世界
 

人間の身体構造を無重力下へ設置し、地(面)を奪い取ったとしても、とりあえずの生は確保できるかもしれません。しかし気圧を取り除いた刹那、それは大爆発とともに飛散してしまいます。この古典的な周界圧の問題を、私達は義務教育の理科や家庭の授業をとおして学び、幼いながらも知的恐怖を経験します。日常において積極的に感じ取れない「圧」を概念的に構成し、認識ひとつで『こんなにも世界は変わってしまうのか』と、わずか十歳たらずで学びます。

皮膚と皮膚の間にある「空隙」によって「自己」の構造が保たれている単純な事実は、システム先行の至上性を減速させ、私達が有機構造であることを知らせてくれます。「稠密なる無機物の塊の中で、それらの強度を押しのけるかのごとく隆起する」それが、柔らかい肌を備えた有機生命が創発する場面イメージのひとつです。

おそらくこの周界圧の存在に、もっとも気付きやすい生態域に棲息する種族は、水生生物の彼/彼女らといえるでしょう。もちろん水中を日常とする者らにとって、それは当然ある原環境なので、普段は議題になどならないかもしれませんが、極限まで抵抗をそぎ落としている姿・形や、肌理をつくる「ウロコ」等を、衣食住獲得に重きをおいた陸上動物のそれと比べてみると空想的な疑念がわいてきます。そこで魚類を飼育してみると、それが良く分かります。泳ぎの上手な魚もいれば、苦手な子もいて、水槽の中で毎日のように小さな四苦八苦が観られます。魚に生まれたからといって、誰もが水に慣れるとは限らないようなドラマです。

この悲喜交々・学習劇を観察していると、その非本能的・非決定的な振る舞いが、魚の擬人化へと誘います。とくに瞼がないが故に、図案化したかのように明確な形をもつ「丸い目」は、普段オブジェクトでしかない「他者の眼球」を「眼差し化・心的存在化」して生きる私達人間には、否応無しに引き込む魅力があります。魚達はどのように他者と出会い、どのように自己を感じ取っているのでしょうか。

ある程度の泳げる技術・体を獲得構成した成魚にとって、中心となる生活域は「水中」です。それは地(面)のない「浮いた世界」です。泳ぎに疲れ、底へと沈み、体を休める際も、自ら地(面)へと重心を投げ出すようなことはしません。魚達は常に重力と抗い、周界圧を押しのけ、蹴りつけ、自己を突き放して生きています。そして、突き放し、最初にとらえる自己は、ほぼ自身の「顔」だけになることでしょう。陸上動物の手足に妥当・相似するものは「ヒレ」となって存在するものの、それらは胴体を含め積極的に視野へ入ることなく、痛みを感じないため身体構造を対自的に反省する契機も少なく、そのうえ、胴体表面の中央を貫く聴覚や、水が流れ出ていくように貫通している鼻孔等、魚類の感覚器は全身にワンパッケージされているため、部分化が困難なつくりになっています。魚達は把持できない「全身」で世界を感じ取り、統合しているため、顔だけで生きているかのような世界描写を行なっているのかもしれません。

空気よりも粘性の強い水の中で生きる「頭部存在」は地(面)がなくとも、周界すべてが自己を含意する地(面)となって、全投射即世界・即他(者)的な溶け入りそうな生活を送っているように思えます。恥入ることなく他者と行き交い、自己の生活映像を劇場化して、どんな不安や恐怖も、他人事のように楽しみ乗り越えていることでしょう。

そして、自己の重心を拒絶した含意生活を送る魚達は、消え入る最後に初めて地(面)を知ると同時に、初めて自己の重みを知り、安らいでいくはずです。一生に一度だけ自己に圧せられる魚達の死に、寄り添う他(者)は不必要なのでしょうか。

 

あなたもわたしも同じなら、あなたの代わりにわたしが変わる。あなたと交われないのならば、わたしから交われてあげよう。わたしの目なら深い海でも、あなたをとらえ、あなたの全部を感じ取り、そばへ行ける。ついていける。だから、わたしに死なんていらない。

 

2009年9月10日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2009