芸術性理論研究室:
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08.21.2008
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-2.04
流動性と粘性
 

とめどなく流れいく川(水)のせせらぎに、着目ではなく捕われてしまった思想や芸術は古今東西に見られます。古代ギリシャ思想や晩年のダ・ヴィンチ等々。たしかに「波」や「音」をたてながら連続移動する液体に出会うと、九字を切られた鬼のごとく、無条件・半強制的に見入ることはあります。始めも終わりもない流水は容易に永遠を観想させてくれます。しかし、それだけが理由ではありません。ここは意味論的なひとつのトリックがあるのですが、このコラムでは理解の理解とポスト理解の示唆を行ないたいと思います。

周知のようにアリストテレス以来、意味内容の構造的所在は語自体ではなく、語の連なりにあるとされます。被定義項を反復しても、他者はそれが何なのか理解できません。「AはBである」といったように被定義項(A)とは異なる語(B)によって説明されなければ、定義にはなりません。そして、ひとつの定義文・定義項は、ひとつの被定義項となり、再度定義を要求します。「BはCである. CはDである. DはEである......」次から次へと換言されて『理解』が構成されていきます。ここには常に新たなものが移ろう『流れ』があります。そのため「川のせせらぎ」は心的豊穣の比喩になりやすく、モティーフ化した場合は内容空虚であろうと、ながい鑑賞への誘いが可能になります。

それは認識の現在域から、とおく末端をぼやかし、めぐりめぐるトートロジーを隠蔽し、有意義であるかのように見せかけるのですが、いつかの疑問が浮上します。何をもって「流れ」を感じ、何をもって暫定理解に落ち着くのでしょうか。もう一度「川」を観察してみます。すると、誰もが触れることなく即座に「流れ」を知ることができると思います。流れる水によって作られる波(紋)が反射する光のきらめき、観察者の動かざる視点等、様々な『流れ』の理由に気付けることと思います。しかし、不動の視点による「きらめき」の観察だけでは、「流れ」は概念化されないはずです。「きらめき」そのものは点の明滅でしかなく、「流れ」を意味しないためです。「流れ」は「流れないもの」との対なので、観察者ではなく、面前に定点が存在しなければ「流れ」の意味は流れていきません。

「川」とは「流れる水」ではなく、「くぼ地にそって流れる水」になります。少なくとも「流れる水」の背景に「流れない溝」がなければ、「流れる水」から「流れ」の前景化はできません。透き通る水が流れる「せせらぎ」の水面は「土や小石」「水草や小魚」と「流れる水」が相互に浸透した二重の景色です。それは「動かない文章」の上を焦点ある視線が走っていくことと同じです。

ここまでが「意味と、その理解の知」の抽象になります。しかし「理解の理解」には至っていません。「溝と流れる水」だけでは、定方向の即自性しかなく、「とりあえずの終わり」が見えてこないためです。そのためには流れの粘性を可感化し、可逆性をつくり出すことによって反省を指し示す必要があります。一見では、ひとつの重力に引きずられて流れていく水に粘性を具現化させるなど不可能なことのように思えるかもしれませんが、それを容易く表現しているものが日本文化にはあります。「枯山水」です。この有名な庭園様式で着目すべきエレメントは、白い小石によってつくられる流れの波紋ではなく、大きな石の点在と、その周辺の表情です。もしも水に粘性がなければ、石組みによって流れが遮られた場合、その裏側には「水なき間」が存在することになるでしょう。流れの力によって粘性が否定されない限りは、「流れる水」は水面から顔を出す「大きな石」の裏側へ流れ込み、巻き込み、ささやかな「反」を見せ、『自省』や『振り返り』を教え、ひとときの「結」の意味を与えてくれます。

私達が文章構造と対峙する時、知らない術語や読めない漢字に出会い衝突することによって少しずつ理解を深めていく場面は、枯山水における石組みによって代表されているといえます。

 

2008年8月21日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008