芸術性理論研究室:
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08.20.2009
灯る闇と輝く闇
 

眼球が眼球自身を見られないように、いま何かを触れている触覚器官は、触覚器自身を触れることができません。聴覚・臭覚・味覚は、情報の媒体を一旦、体内へと取り込み「通過」といった文脈構成を行なわなければ、情報化には至れない他律性の強いゼロ・ポイントな感覚器になるので、自己知の問題は問われるまでもないため、実在論的描写が当てはまるのですが、視・触に関しては何らかのかたちで、自己を前提にしなければならず、そこが芸術家、殊に美術家を虜にする重要な違いになります。

対象を見ている眼球は、「眼球もオブジェクトなのだから、眼球も見ることができるだろう」と疑念可能ですし、対象を把持している手は、「手もフィジカルなのだから、手も触れることができるだろう」と期待できます。これらの悩み事を解消しようとする試みは、眼球の場合、その大部分を内部器官としているので、論理的批判以前に頓挫してしまうのですが、周界映像に対象をつくり、第一前景を設けては、うつろっていく触覚器・手は完全に外部器官と呼べるので、幼い遊びが可能です。

マウスや携帯を握り、いままさに触覚の識閾をふるわせている方の手を開き見つめてみます。指先に残るわずかな触感を凝視するは、指先で指先自体を触れようとするディレンマを喚起します。そこで、指を折り曲げてみます。最初に触れるものは、手の平です。これは「右手で左手を触れる」同様に、部分的な自己客体化による自己知・広義のセルフ・レファレンスになるので、完全とはいえません。ゆっくりと上方へ、手の平を這わせながら、指先を巻き込んでくると、指先が指先へと接近していく感覚に胸を躍らせられるのですが、すぐさま骨格構造の限界に行き詰まり、「やっぱり、薬指は薬指を、中指は中指を、さわれない」という挫折へと至ります。

触覚は自己を前提としなければ、肌理も、ぬくもりも、強度もボリュームも感じ取れません。しかし、それが感覚器であるが故に、自己知が許されず、前提に潜む自我の後光によって、常に「さびしさ」を拭いきれず、閾以前ですら震えが止まらない『孤独』になります。

そのため、私達は昼夜を問わず、「何か」に手を伸ばし、含意関係の中で「他者ではない・私」を取り戻そうと必死です。昼はあらゆる生活雑貨や道具へと手を伸ばし、夜は恋人の体を引き寄せようともがきます。どちらも同じ触知ではあるのですが、ここで統覚批判・視覚と触覚による補集合的批評を加えると形容に差が見えてきます。

 

昼に触れるは『灯る闇』、夜の愛撫は『輝く闇』となって、私達の触覚世界を豊かに彩っていきます。

 

2009年8月20日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2009