芸術性理論研究室:
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08.14.2006

地平化するテクスチャー

 

キャンパス(画面)の大きさを決めた画家。ファイルサイズを設定し終えたイラストレーター。パーティングラインや気泡をパテ埋めして消し去ったモデラー。これら任意の過程を終了した行為者達は一見するとこれから自らのテーマを充足させる場の確保に成功したかのように思えます。あとはエスキース(アイデアスケッチ)をたよりにしつつも趣くままに絵筆をとれば良いかのように思えます。しかし多くの作家達はここでもうひとつ重要なプロセスを挿入します。このままでは色をのせることはできません。仮にうまく塗布できたとしても作品の完成後に乾いた塗料が剥がれ落ちてしまいます。ですからこの段階で画家は画布(面)に見合ったジェッソ等を塗り、イラストレーターはカラーモード(CMYK/RGB)や背景色、解像度等の設定を行い、モデラーはサーフェイサーを吹き付けることによって顔料(メディウム)が確実に定着する「下地」を整えなければなりません。

ひとりの画家が観想する世界内容を成り立たせる基盤は画布が終わりを告げるフレームにあるわけではないのです。それがもし画家にとっての原世界の境界を意味するのならば遠近法を用いて「画面の中」へ空間を作ることができなくなります。もしくは遠近法なき絵画に空間を認識してしまうことになります。そして完成した作品に満足できなかった時、画家は枠の外へ跳躍することができなくなることをも意味してしまいます。

様々な作家達が慎重に下地を整えマティエールを用意する時、彼/彼女らはこれから自ら創造した形相のメディアとなる色やエレメントを定位させることによって、それらをメディア然と成らしめる世界の母体である『生きる無』を作意の外で作り出しているのです。この場面の作家達は自らの手を使いつつも自身の手腕を見ることなく知ることなく、ただ自動的に面前に整序され乱されていく前風景を傍観するばかりです。その発生は制御外にありながらも他者の侵入が禁止された、作家本人のためだけに用意された支配可能域になります。そこでの美術家達は自己の呪縛に歓喜しつつも無制約の様相に恐怖しています。

そしてこの何も描かれていない此岸であり彼岸ある画面に作家は確たる地平概念を凝視しているのです。その超えることのない眼差しの集束点は有機的に連続し、やがて閉曲線化して地平を形成していきます。つまり意図に先行した受容性あるテクスチャー自体が世界の境界の可能性を担っているのです。その見られることを許したテクスチャーが。

没永遠的な私達は自身の全てを知ることができないために自己の複製を作ることができません。だからひとつの作品にどれ程の想いを落とし込んでみてもそれは自己破片・部分でしかないものです。「生涯に渡り一作しか残せない」を不可能としていることに気付く時、私達は真っ白な無の表面から内外の区別を奪い取り、自己の背後に潜む視点からの命令を組織していくことによって「次作の約束」を確信し狂喜するのです。

 

2006年8月14日
ayanori[高岡 礼典]
2006_夏_SYLLABUS