芸術性理論研究室:
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08.13.2009
鳥の世界
 

どんなにあなたを愛しても、私はあなたを抱きしめられない。どんなにあなたを愛おしく想っても、あなたへの口づけは、あなたを傷つけてしまうかもしれない。それでも私はあなたを感じることができる。私がどこにいようとも、あなたがどこにいようとも、私はあなたを直感できる。それが鳥類であることの特権ならば、私は地(面)を捨ててもかまわない。

 

おそらく地上で最も高度に位置する生態域で生活しながらも、決して上位とはいえないニッチへと追いやられている鳥類(飛ぶ鳥)は、その力と領域の独特なアンバランスさ、人の愛憎を比喩しやすい生態によって、古来より人の情念・権力からテクノロジーへと至るまで、様々な分野でシンボルやアイディアのソースとなってきました。「つがい」を構成する愛も、託卵を行なう弱さも、強者だけを育てる選別・優生も、すべて鳥類では良く知られた戦略です。爬虫類だった痕跡を残す「脚・趾・爪」は、飛ぶ鳥の場合、歩行のためではなく、「枝」に掴まるように適合した「つくり」になっているため、地上を歩く、彼/彼女らの姿は、どこかぎこちなく、おぼつかず、「かわいらしさ」を魅せる反面、その一瞬間後には、人が容易く真似できない「技」を使って、遠い空へと飛び立っていきます。

舞い上がる鳥達は、歩く動物らとは異なり、一切の「支え」がないままに、自らの位置価を描き、他(者)と出会うため、鳥類の認識域の擬人化は困難を極めます。空を舞うといっても、宇宙を飛翔しているわけではないので、重力や磁力に引っぱられ、「上下左右」といった方向・座標概念は懐念されているのでしょう。引かれ落ちる方向は地(面)を指し示し、陰影から光源を、光源から水平軸が導き出され、光源変化を磁力によって整序して飛ぶ鳥たちは巣へと帰っていくのかもしれません。

ここまでならば、身体構造と周界との間にある「位置」や「価値」のコードは単純なので、人にも論理的にその生活を想像することはできます。しかしながら重曲線を描きながら獲物を追うタカの姿を仰いでしまうと、一筋縄ではいかない様相がみえてきます。通常、人は自己の身体構造に上下左右を一対一対応化して、特別なエンコードを行なうことなく生活しています。頭部は「上」、足は「下」、対称構造を単一構造をたよりにして分割し、「左右・水平」の概念化に成功しています。常に地(面)ととも他(者)と出会うため、「出会い」は「私とあなた」を触知的に含意構成できます。ここで「飛ぶ鳥」は触覚環境ではなく、方向定位のみによる直感的な視認環境を生きていることが分かります。そして縦横無尽に翔る「タカ」によって、自己を保ったまま連続的に体勢コードを組み立て直していく存在であることも推測できます。かつて頭(上)であったものが下になり、足(下)であったものが右になり、左翼であったものが上になりと、めくるめく位置価の変化の中で、それでも尚、視野に入る「何か」を対象化して、自/他競合に勝利して、仕留める技は、形容を失ってしまいます。

 

不可能は人にとって脅威にうつります。でも鳥は、かよわく気遣い深い生き物です。ひとりで遊んでいても、必ず皆のもとへと戻っていきます。鳥は自身の弱さを直知していたから、猫が森に留まり、木を登ったように、空へ逃げたと比喩すべきなのでしょう。

 

私はあなたを抱いてあげられないから、あなたを卵で産み落とし、一生分の『ぬくもり』をあなたへ贈ろう。私はあなたを抱きしめられないけれど、さびしさはこの羽で包み込んであげよう。あなたが彼方へと羽ばたき消えていく日まで。

 

2009年8月13日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2009