芸術性理論研究室:
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08.06.2009
歩行映像について
 

地の存在に気付き、球の上を転がる人は、生ある限り「移動」から免れることがありません。心から臨み在る存在であるにもかかわらず、それは私達の生活に多大なる労働を強いり、苦しめ悩ませます。移動しなければ、食を手にすることも、愛しい人を抱きしめることもできません。そこで、このコラムでは、私達が足を使用して移動する際の苦を和らげる偽法をひとつ用意して、視覚映像の「エッジ」を確保したいと思います。

生活者が自らの移動・座標変位を感じ取る大きな情報として視覚情報にある背景のスクロールがあることは述べるまでもありません。遠景はゆっくりと、近景はせわしなく、移動方向とは逆の方向へ向かって退いていきます。そこには移動する者と同じ速度はなく、外挿する能力を持っている概念者でなければ、対自的に自己を知りえない面白さがあります。自己と等速で移動する隣人は、まるで静止しているのかのごとく知覚され、自己そのものを反射してはくれません。私の行為がなければ知覚されえない遷移情報内のどこを探しても「私」は見つからないため、視覚に頼った移動描写は自己不在を位相化して、不安を募らせます。

森の中を彷徨う時、木々の姿が視認できる距離に山々を位置付け散策する時、自己の移動速度に反応するかのごとく「面」を変えていく木々・葉の姿は、ひと昔ふた昔以前のゲームやアニメーションが利用していた二重スクロールを、はるかに凌駕しています。葉の一枚一枚が煌めきを変えながら、木々一本一本が固有の座標軸を保ちながら後退していく、数えきれないほどの多重スクロールは、多くの構成要素を秩序付ける連動の美しさを観られる反面、自己の存在所有と移動占有の間にあるディレンマに気付かせます。あの輪郭の流れ変わる姿・形は、「私」だけの映像であるにもかかわらず、 ─映像であるが故に─ 無謬のコギトを存在証明できず、構造空間内で喪失して、苦しさだけが纏いついてきます。

その苦は「私」の移動を阻もうとするものの、目的論的な行動規範にある者にとって未到着の場合、それは行動停止の因にはならず、耐えながら「私」は歩行を継続していかなければなりません。すると「苦」は時に人を、うつむかせます。この俯きながら歩く映像は、見上げて歩く通常の歩行映像と比べると、少しだけ趣が異なります。不動的な焦点対象が存在せず、スクロールは激しさを増します。そして『私』が動かし、『私』とともに移動する「私」の足が見えます。

地(面)を踏み締め、「私」の座標を蹴りつけ、常に胴体・重心を揺り動かし、整えてはまた壊していく「歩く足」を視野に収めながらの歩行映像は、疲労する「歩く足」を捉えているが故に、映像内容が過激であるが故に、苦を取り除くことなく、逆に苦を増長させてしまいます。ここで役立つものが現象学的脱移動のトリックです。所詮、身体とてメカニカルな「構造」でしかなく、歩行は崩れたバランスを取り戻しては失う動的平衡的な物理でしかないと認識描写してみるだけで、人は自己の身体を、そこに置いたまま遠くへ追いやり、脱統覚の中で自己断裂が可能になって、苦の意味内容が変化していきます。これは、重い荷物を持ち上げ支える際に、『少々重い程度で、腕が引きちぎれることはない』と思うだけで、暫定の耐えを構成できる慰めと同じことなのですが、話は「うつむきの映像」に戻し、別の重要を指摘します。

現象学的脱移動のトリックによって、苦から開放されると、俯きながら歩き見る映像を冷静に捉えられるようになり、明確な焦点対象が存在しないにもかかわらず、そこに自己の移動を描き写せてしまう大切な映像の枠・部位に気付きます。焦点周界の問題です。私達は日常生活において、焦点対象のみを「見ている」の意味内容に妥当させているかもしれませんが、もしも視覚映像が焦点のみであるのならば、それは不自然なピンホールとなってしまうことでしょう。私達は見ていないところも、なんらかの動詞によって見ているのです。「うつむきの映像」の場合、その「激しさ」は視野の外へと超越していく境界周辺にあります。アスファルトの上を歩く時、それは最早、敷き詰められた道路ではなく、掻き乱され、溶けいったテクスチャーとなって、画格の向こう側へと飛び出ていきます。その激しさは通常、認識対象にはならないものの、視覚文脈を成立させるには必要な余韻であり、画家が描き落とすわけにはいかない重要なエレメントになります。

 

2009年8月6日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2009