芸術性理論研究室:
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07.30.2009
影の先の一塊
 

アカデミックな美術教育を通過した、手慣れた画家は、静物や風景画の着彩の際に、物の影に「黒の絵具」は使用しません。厳密にいって、光をまったく反射しない物質など、日常生活には存在しないため、具象表現に「黒色」は馴染みません。そのため、無彩色ではなく有彩色、殊に補色混合によるグレーの塗り重ねによって、その場に擬似的に現れる不即的な「くらがり」を写し取ります。色の三原色同様に、光の三原色による黒は、彩りがないわけではなく、有彩の色相に位置付けられる光以上に豊かな色合いを含んでいるのです。

そこに明確な彩度の高さはないものの、その影をつくる主の背面だけではなく、影自体が多くの期待を誘います。アスファルトやコンクリートの外へ出て、自然らしい自然が残る郊外へと移動してみましょう。視線を落とし、足もとに生える草花を見るだけでも、都会の雑草とは趣が異なる点に、一瞥で気付くことでしょう。任意で区切られた小さなフレーム内においてさえ、同種の草花が二つ以上隣り合わせないかのごとく群生し、眼を楽しませてくれます。その視線運動は、デイライトがつくる「きらめく形」に戯れ、複雑な陰影へと吸い込まれていきます。そこに出来ている影のひとつひとつが繊細な階調によって晒されているため、鑑賞を試みる者は凝視せざるをえなくなり、視認の難解さに深く悩むことになります。葉と葉が重なり、花びらと茎が重なり、その色や形は草木の種類の多さに比例して、謎を深めていきます。顔を上げ、もっと大きく、広い木々の姿を視野へ入れてみると、その深みは行為を促し始めます。捉えきれない視覚の苛立ちは影をまさぐらせます。容易に手が届くもの、しかし、手を届かさなければ、知りえようのないものは動機を擬似的に構成しているかのようです。

そのため、郊外・田舎での生活は、ひとときも体の動きを止めさせてはくれません。折り重なる影色の香りは、他者を呼び寄せ、自らの秘匿を暴き出すように要求します。枝葉をかきわけ、花々の振る舞いをかわし、ちいさき者達の悪戯を用心深く擦り抜け、踏み入る世界は、同じ草木による景色反復のようですが、苦労して辿り着く先には、表裏や内外のない浸透ではなく、不明確でありながら絶対的な終わりが潜んでいます。「土」です。

ここで行為者は、そこへ辿り着くために初めから存在し、かつ、必要であった「土」と再会して、循環の問答に捕らえられそうになるかもしれません。冷ややかに湿った土の触知が、踏み締める感触と関係付けられ、人は謎めいた地(面)・地球の上に、ちいさな円を臨在構成し、転がっていきます。

単位なきはひとつの単位。その「ひとつ」を区切るは行為の可能性。行為は「単位なき」へと再帰して、不可逆の反復を豊穣化していきます。それは、白より白いものがない紙の上にはない世界であり、黒より黒いものがないモニター上にはない世界です。

 

今期はいままで以上に経験領域を可能性化することに努める予定です。どうぞ宜しくお願いいたします。

 

2009年7月30日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2009