芸術性理論研究室:
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07.20.2005

知識とカエル

 

知識とは予め決定された範囲内に自己を構成するために自己産出した素因でしかありません。未知と既知の差は不可能/可能の差ではなくアンフォーカス/フォーカスの差でしかないのです。ですから真理とは経験論的な対応による共有可能な全体ではなく、暫定的な自己確信の部分でしかありません。現代科学や世俗一般に流通しているサイバネティクス的に非自己を包括・吸収していくような経験論は学習における個体差や認識の誤謬を説明できないばかりでなく、物的な非知性を知的領域におさめてしまうことにより知性自体の区別・説明を不可能とする矛盾をおかしています。

私達は原理自体を知ることはできませんが、原理自体が自己を否定することなくそれに成ることができないものを知ることはできません。物自体を知るとは死を意味する言葉でしかないのです。

惰性の生によるインスタントな経験的知識によってのみ認識理論を構築し、自己の理論を反省することのない方々は「井戸の中の蛙」であることを教条としています。意味内容を一切不問とした行動経歴の項目数を争うことによって、知識や『人』の豊穣化を測る(図る)ことができるとすら思っているようです。

「井戸の中の蛙」とはカエルが井戸の外へ出ることの可能性を前提としている以上、『人の性』の説明には反目していることを知るべきです。全知とは論理的に認識を必要とはしません。認識しなければ知ることがないのなら、それは全知ではないのです。これは井戸の外へ出ることは知識獲得の約束とはならないことの論理となります。

 

日常のありふれた経験自体に意味内容など一片もありません。経験は知性を前提にして初めて知識と成り、呼びうるものなのです。一冊の本で全てを見通してしまう小学生もいれば、何万冊もの読書を経験しても何の徳も見出せない老人がいるように。

私達は永劫に井戸の外自体を知ることのないカエルなのです。人に妥当する知識を得るためには「井戸の中を知らない蛙」であることを知るところから始めなければ、何を経験しようと何も経験したことにならない生を送ることになるでしょう。

 

2005年7月20日
ayanori[高岡 礼典]