芸術性理論研究室:
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07.10.2005

難解性について

 

自己の知的領域外や知的水準を凌駕するものと対峙すると多くの方々が「難し過ぎる」「分かりやすく言え」または「自己完結な独りよがり」と言って揶揄の一笑で事を済ませようとします。しかしその反面、自身より知的劣位にある者へは過剰なまでの中傷を平然と行い、また非創造的な衒学によって自己の立ち位置を上位へと配置することに懸命になります。

アリストテレスの「弁論術」から始まる「いかに表現するか」についての考察は終わりがありません。それは趣味的なものであり非学問領域にあるためです。中世学問界からは文学や学芸は大衆を自己の作意へと導くだけの無意味な我田引水として嫌悪の対象となっていました。それが学問へのオリエンテーションとなることなく「知った気」になるだけのものならば現代においてすらその通りと言えましょう(*)

(*)もちろんこれは作品と鑑賞者との関係によって成立することですので、どこかに帰責対象があるわけではありません。

学問や芸術が古来より難解である理由は無形のものへ形を与えることである以上に厳密さが基本倫理になっているためです。ここで厳密さが微分と同義とするのならば、平易を求めるということは「鉛筆を用いてフルカラーを再現する」よう不可能な要求をするということです。近年「わかりやすさ」を求める声は学問域からも発せられますが、それでは一体どのようにして思索の深化へ至ればよいのか、その方途を示してほしいと思います。

難解さとは学問へと挑む真摯な態度の表れでしかありません。自身が入り込むスキがないからといって本題と無関係な側面を突くことは自己の知劣さを曝すことであり、反目的的な自己否定行為です。分からないことがあれば訊けばよいことですし、それが嫌だというのなら自身で調べ勉強すればよいだけのことです。

 

2005年7月10日
ayanori[高岡 礼典]