芸術性理論研究室:
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06.30.2008
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-1.10
スタイルについて
 

毎期末、最後の中間報告(コラム)は、当研究室の本分ではない前学芸的なエッセイ・批判を書きます。今回は観る者と制作する者との間にある「スタイル(カテゴリー)」という概念理解の相容れなさについてです。これは、これから進路を決めようとする方々が対象になるので、学徒の方には無用の雑文になりますが、どのような分野であろうと、自己をつき動かすドライバー(第二動因)には、何かしらの我田引水的な理念・思想が潜伏しているので、初心の再確認としてでもお読みいただければ幸いです。

 

芸術家にとってスタイルとは作品と同じく、メッセージや情動を伝える手段でしかありません。芸術家とは革新的なアイディアを絶え間なく供給する自律者であって、手足を動かせば、たやすく出来上がっていく程度の図案や音の連なりを作る者ではありません。半必然的に情報(自他の行為の可能性)を作ることになるのですが、その伝達による社会構造の再配置は参照以上の意味がなく、眼目はどこまでも確認不可能な心的現象の撹乱にあります。そのため、芸術家の「行為」とは表現(代表)であり、パフォーマンス(意図的行為)と呼ばれ、アルチザン(技術者・職人)による製作(作業)ではなく、『制作』として特化されているのです。

たとえば特定の誰かへ宛てて手紙を書いて送ったとします。その返信が「きれいな字をお書きになられますね」の一文だけだったのならば、最初の手紙の送り主は不毛なコミュニケーションに鬱屈としてしまうことでしょう。「きれいな字をお書きになられますね」というスタイル評価の一文は、文通の文脈に当てはまるものではあるのですが、送り主の言葉の意味の理解を示す換言部分がなければ、その文通はコミュニケーションではなく、物理現象と大差ないものになってしまいます。当然のことのようにお読みになられているかもしれませんが、この読解できない人と呼ばれる類は、社会のいたる箇所に存在し、表現者の心を侮蔑しています。それこそ、芸術家と呼ばれている者の中にですら、読解者を探すのは難しいのです。

明文化しがたい心の高鳴りを世界へと叩き付ける表現者を目指して進学に迷う方々には、その初段階で頓挫しそうになることでしょう。芸術・純粋表現を研究したいだけなのに、なぜ音楽・文学・美術等といった様々な分野に分けられているのか理解できないはずです。しかも、学部だけならいざ知らず、同じ音楽や美術の中にですら細かな科や専攻が存在し、入学するには初めにどれかひとつを選び取らなければならず、ますます困惑が深まります。その困惑の理由は、学部や専攻を切り分けているコードがメディアスタイルによるものであるがためなのですが、「それならば入学後に専攻を超えた交流があるのだろう」という期待をお持ちかもしれません。しかし実際は、そのような総体的な場など皆無に等しく、メディアコードを作った者らによる講義を、メディアコードの餌食になった者らによって保全されていく営みが大学構内では繰り返されているのです。

創る才能がないがためなのか、読み取る気がないがためなのか、その理由は分かりませんが、観察を超えた鑑賞視点を持てない者達によって芸術のカテゴリーは作られ、温室・サナトリウム化した分野の中で作品が目的化した本末転倒の至上劇が繰り広げられています。そしてその演目には幕の用意は施されていないようです。

『あの美術作品とこの音楽作品は、結局のところ同じ思想圏にあるのならば、同じくくりにすれば良い』などといった制作者視点など擁護されず、主張のない無差別な展覧会やライブの企画は後を絶つことなく続いていくことでしょう。構造的差異による分類は、ナンセンスな人種差別と同じだということにすら気付かずに。

 

メディアや分野が変わろうと、一線を描ける者こそが芸術家であり、表現の純粋です。与えられたテーマや課題、画材や道具でうろたえているうちは、義務教育を受ける者と何ら変わらず、ひとりの人(私人)ではありません。以上を自ずと知っていた眠る方々へお願いです。先人達が作った心ないゲームラインを壊し、芸術の外延そのものが存在する社会をつくってほしいと思います。

 

2008年度春期 ─了─

 

2008年6月30日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008