芸術性理論研究室:
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06.25.2007

機械について

 

機械は論述しがたい自明性によって、同定コードの明確な定義を困難としています。それが道具の延長上に位置するものであるとしても、「使い方」を見出せないもの、一体何のためにあるのか見当もつかない複合体を─少なくとも「動き」という機能を観察できる限りは─それを「機械」と呼びます。たとえば「ねじを巻く」「ハンドルを回す」等の作用を加えた後に、針が回り出し、音色を奏でたのならば、それらを時計やオルゴールと呼ぶことになります。また機械は律動性だけを必要条件としたものであり、第一動因の自充自足を条件とはしないことも分かります。そのためモーターやシリンダー、ギアやチェーンを組み合わせて「動作」を見せるものならば、観察者へ利益を与えなくとも『機械』として観ることができます。開発史的に機械が道具の後に位置するものであったとしても、観察即同定性を内属する機械は認識的には道具を先行します。道具は使用者が定義項を担わなければならないためなのですが、機械はその構造が被定義項を、機能が定義項を担うと捉えるのならば、有意味なトートロジー体となり、その自明性を理解へと昇華することができるはずです。ここで機械仕掛けの美術作品は「機械」へと包摂され、一部の美術家はエンジニアへと置き換えられてしまいそうになるのですが、この製作と制作を混同してしまう親和性にはポジティブなひとつの楽観が潜んでいます。

そこで芸術概念を不必要・無理解とするような集団の中心へ、「人が作ったもの」という一文を添付し、得体の知れない動きを続ける「機械」と静的でソリッドな単一体、たとえば「石ころ」のようなものを投げ込み、好きなように触れさせてみることにします。しばらくすれば、「石ころ」の方はその用途を思いつき、何かの加工や身を守る防具として使い始めるかもしれません。しかし「機械」の方はどうなることでしょう。その機械が壊れてしまうか、使い道のない対象に腹を立てた誰かに「石ころ」等で破壊されてしまうかの間は、おそらく「見守る」しか術はないように思えます。極度に未開な集団ならば、そこで機械は「御神体」にでも祭り上げられるかもしれませんが、添付文と機械とを対応付けることができるくらいの知的水準にある集団であったなら、動いている間は疑問の傍観がその場を空間化することでしょう。「動作」という自足性と干渉を拒否する排他性によって、その物体はそのものの寿命を全うしてから素材へと還元していくはずです。

 

つまり「動き・動く機械」とはブリコラージュ的な身勝手な作用を禁止させ、自己言及という芸術性を訓育する筆頭契機といえるのです。そこで芸術概念が正しく生まれなくとも、芸術に意義を見出す場面まで行かなくとも、作品と衆目が向い合うといった原初的な構図と出会うことになるでしょう。

美術を理論からだけではなく、経験社会的にも修得したいと考える野心的な若い美術家・画学生らにとって、工学メディアを使いこなす知識は必須科目といえるかもしれません。

 

2007年6月25日
ayanori [高岡 礼典]
2007.春.SYLLABUS