芸術性理論研究室:
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06.17.2005

共同態の公的化

 

ゲマインシャフト(共同態)とは科学・技術が生み出した誤謬であり、決して人文学が捏造した空想的社会像ではありません。経験科学によって地平を同一化され技術革新による機能的平均化が眼目を製品差別へと移行させることによって、人は本来的に不可視・不可知のものを可視・可知とし、非合理的・非機能的なものを準拠項として組込むことになりました。

アンチ・ゲマインシャフトは夷狄の言葉であり、アンチ・ゲゼルシャフトは系列内の言葉です。そのためこの拮抗を無に帰すこともテンニース的なジンテーゼも困難なことになります。

 

そもそも「社会」とは有限者にとって届くことのない超越域であり、その存在性は「ユートピア」となんら変わらないファンタスティックなシノニムでしかありません。これは社会が在ると思うことと神が存在すると信じることは両者共に牧歌的な妄想癖となんら変わる点がないということです。

 

にもかかわらず私達は社会という概念壁へと臨在するよう仕向けられています。そこで社会への行為・構成原理を排他選択しなければならないとするのならば私達はゲマインシャフトではなくゲゼルシャフト(集合態)を選ぶべきことをここで再確認したいと思います。

述べるまでもなく現行社会は低俗な桎梏によって組織されているゲマインシャフトです。世俗一般にゲマインシャフトは人の心を尊重する称揚すべき規範のように謳われますが、それはマジョリティーの幻想によるヘーゲル的精神の暴力的捏造でしかなく、私的/公的の区別を行わない幼稚な社会でしかありません。この現状を「多元的ネオテニーによる社会(*)」と揶揄することは言い過ぎではないでしょう。使い古されたラカン的な鏡像段階などといった未分化の説明ではもはや言葉不足なのです。

この「多元的ネオテニーによる社会」は「タカの爪」を隠蔽し、虚飾の「コウモリ」の生産を止むことがありません。これは社会が系である以上、循環を作り出さなければならないために回避不可能なことです。しかしこの「無意義」の連続生産によって常に一歩後退した「年表」を構成し、後続する方々へ虚偽の提供をし続けることが人類的無限後退であることをもう少し知るべきです。なぜならそれは人と人とのコミュニケーション・会話があるように見えるだけで、それらしいものが何処にもない社会を永続させることになり、有限の世界で無限の浪費を生み出すことになるためです。

(*)ネオテニーとは幼児形態のまま性成熟すること(幼形成熟)を意味する生物学用語。同質関係にある部分と全体の非均衡化が原定義であるため、ここでは「多元的ネオテニー」としている。

 

未だに社会は機能的分化の最中にある黎明であって、決してゲゼルシャフトとはほど遠いものなのですが、機能的最適化も私達の有限性によって遮られています。選択したものが何をもって最適であり合理的であったのかを判断する材料も有限である以上、その「最適・合理」判断は擬似的なものでしかありません。ですから安易にアンチ・ゲマインシャフトを謳うこともゲマインシャフトと同等の行為を繰り返すことになってしまいます。

社会構成の前段階においてこのディレンマを正しく知るところから人類史は始まります。歴史的文脈の裏側は常に年表の遥か先にいることを知る方の歯痒さを抹消することは古来より人文・芸術の求めるものの一つです。

 

2005年6月17日
ayanori[高岡 礼典]