芸術性理論研究室:
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06.03.2005

倫理発生と悪について

 

老化現象も寿命もない単細胞生物が性分化を果たした時、生命は観察可能な死を獲得しました。そして同時に摂食機能が必要となり、殺すことを知りました。やがて社会化が拡充することによって、自己の多様な複雑性が縮減可能になり、自己保存が容易になると「集団」と「殺傷」は矛盾することに気付きました。そこで初めて個的意志を前提とした行為の枠組みが必要となり、法規範や価値規範といった倫理という形式概念が発生したのです。

社会形式と倫理形式は不可分の関係にあります。社会とは悪を産出・設定しなければ自己平衡化できない系であるため、原的に逸脱者ではない構成要素に対して「逸脱(悪)」のラベリングを行うことによって境界域を設定し(スケープゴート)、私達は自己や帰属集団を正当化しなければなりません。

しかし排除の機能をもつ者は社会的とはいえますが、それだけで知的・人類的とはいえません。逸脱者を前にしてその存在自体の不可信による価値を伴う排除を行うということは「事実」と『価値』の峻別もできない自他同一者の愚行です。それは幼児期における未分化な状態に留まる反知的な暴力行為であり、あいかわらずイデオロギー(価値コンセンサス)を必要とする非主体者、非芸術的人間らによる傍若無人なのです。

本来、法規範とは行為を観察的に判断する後付けであり、動因的な価値規範とは行為契機の可能性でしかなく、両者はまったく異なるものです。行為とは物理的規範によって制約化されるため他者と相互浸透的なものです。その意味でそれは自己へと帰属されるものですが、如何様にも変更可能な自己内属した『価値』とは共約不可能なものなのです。これらを対応化しなければ社会は始まりませんが、同一化までいくと要素の単一化であり、複合性を前提とした社会の否定を意味してしまいます。

ここで私達は『非自己』の殺戮が『自己破壊』を意味することを知らなければなりません。

人に許された排除とは構造域に限定された手続きのみであり、「人間」が『人類』へと移行するには境界設定にあるのではなく、批判的境界設定(超越論的反省)にあるのです。

 

2005年6月3日
ayanori[高岡 礼典]