芸術性理論研究室:
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05.29.2008
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-1.05
叶う恋・祈る愛
 

空想、否、憧憬から始めます。

『わたしとあなたは約束を交わす必要がありません。わたしの時と場は、あなたのそれと同じくし、不都合は常に二人とともにあるためです。わたしの不自由はあなたの心遣いによって、あなたの不自由はわたしの想いによって取り除かれ、満たされていきます。わたしはあなたに胸の高鳴りや生理的な欲求の事実を伝える必要なく、あなたはそれを理解してくれます。あなたが作品の前で感奮する際、わたしはあなたの情動の内容を理解できなくとも、あなたがどれだけ心拍をふるわせ、血を滾らせているのかだけは即座に知ることができます。そのかわり、あなが悲嘆に暮れようとする静かな夜を、無理解なわたしは心なく邪魔をしてしまうかもしれません。いつも迷惑ばかりかけていることでしょう。ごめんなさい。』

『それが何時だったのかは覚えていません。きっと、あなたの横顔を見つめるあまり、既に超えかけている事実との相克によって芽生えていたのかもしれません。』

『あの人達のように美しくできないけれど、少しだけ不格好になってしまうけれど、あなと交わせる口づけは、ただひとつ許された愛への過程です。』

『最初はそれだけで良かった。誰よりもあなたの近くにいられ、あなたと行動をともにできるわたしは幸せなんだと思っていました。でも今では違うような気がします。あなたの愛撫を受けるたびに、わたしの体は居場所をなくし、愛を失ってしまうのです。愛は同一ではなく、同一化への過程の最中にこそ現象化されるため、わたしにも、あなたにも、禁じられているのです。』

『わたしはあなたを抱きしめる体が欲しい。あなたとともに居られなくても、あなと別れてしまうことになったとしても、それ故に、あなたを愛せるのならば。お願いです。誰かわたし(達)の体を切り裂いてください。』

もしも、胴体(内蔵)と泌尿・生殖器のみを共有する結合双生児が互いに恋しあったとすると、健常者には現象不可能な愛の深化を辿れそうな気がします。しかし、二つの心身とひとつの脳という形の結合双生児でもない限りは、曖昧な両義性は否定され、恋する二人は自己否定に苛まれてしまうことでしょう。行動域の補集合は同一化への導きになることなく、むしろ心の同一化不可能を特化してしまうはずです。

心が他(者)を描き求める時、その多くが不可能な事柄です。無限の自己を地平とする心にとって、愛や会話といったコミュニケーションは不可能であるが故に発生し、初めから可能ならば不必要な、ひとつのパラドクスになります。なぜそのようになっているのかは論じられないにしろ、認識の枠組みにのりにくい構造は排除の対象になり、タブーを不必要にする結合双生児は自らインセストを禁じていることに気付くかもしれません。

惹かれあう恋は先行する心身と無矛盾に叶いうるかもしれません。しかし、愛は祈りの中で無限接近だけが可能な無常の営為であって、契約ではないのです。

 

2008年5月29日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008