芸術性理論研究室:
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05.27.2005

批判・議論について

 

他者からの反論や疑義を許さない、もしくは黙視することは表現者の怠慢になります。被表現者が表現者の行いを前にして何のアプローチも出来ないということは絶対者の所業であり暴力でしかありません。「被表現者は無謬的に作品を受容しなければならない」という倫理強制は自己を王と僭称するファンダメンタリスト(原理主義者)の愚行です。

たしかに現代作品には権威というパワーは約束されていません。そのため鑑賞を欲しない者は見なければよいことになります。これは芸術家の表現行為における自由度を保証する論拠になっているのですが、ここに完全依拠することによって無反省に何を行っても良いわけではありません。

もし芸術文化の社会的地位の低さに辟易し、それでもなおその向上を目論んでる方がおられるのならば、それを邪魔する最大の枷とは作品自体や市場の様相以上に「議論の場」を先行的に排除している点にあるということをまず確認しなければなりません。

多くの放置的表現作品がオーディエンスに対して受容か黙視しか権利を与えず作家に対しての批判・議論といった社会的能動性を剥奪することによって、自己の真理を絶対化し、権威を構築・維持しています。公的空間に絶対的ファルスなき時代において唯一それが生き残っている領域と言えましょう(*)。現代芸術家の多くが採択している倫理原理とは「殺人鬼を前にした者は黙って殺されるか、逃げるしか許さない」ということを潜在的に意味しているのです。これが自らコマに成り下がる知的障害的な制作者とコマ使いの主人であるキュレイターとの癒着によって成し遂げられる巨大なアジテイト・プロジェクトの一つです。どのような行為・価値規範をもつ方がこのような枠組みへ自己を編入させることができるのでしょうか?これでは永劫に芸術文化への期待など不可能なことです。

 

顔と名前と所在をあかし議論の場や窓口を設けるということは社会的表現者が克服しなければならない基本的な必要条件なのです(**)

 

2005年5月27日
ayanori[高岡 礼典]

 

(*)パラダイム批判を拡大すればどの領域にも言えることです。トーマス・クーン[1962,1970](中山 茂訳)「科学革命の構造」みすず書房1971。

(**)この条件主張に対して自己顕示批判を行う者の多くは自己行為の定義もままならない矮小者であり、批判以前に内省するべきです。