芸術性理論研究室:
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05.22.2006

身体の所有と占有

 

賤しき者の手へ経験科学を手渡すと植物状態にある昏睡する人間は「オブジェ」になります。それに対して伝統的な西洋哲学は反論することなく、疑義をただすこともなく、ただ黙するのみです。知り得ようのない他者自体が絡みつく議題に答えを用意することなどできません。それは「脳死は人の死か」という問だけではなく「死後の身体は誰のものか」という問題なのです。換言するのならば「自己の身体は所有物か占有物か」という問いになります。

私達は自身の肢体を日常当然のことのように所有物としています。なぜなら身体は決して自己の支配・制御域から抜け出ることなく意識に纏いつくものと思えるからです。自己と環境はその身体構造によって繋がれているのですが、それが両義的な結節者でしかないために、私達は身体の取り扱いに思い悩むことにもなります。ここでギリシャ語のソーマが身体と物体をともに意味することは偶然ではないと言えるでしょう。

 

誰もが「自分の体は自分のもの」と思われていることでしょうが、例えばここで自身の右腕を付け根から切断し、目の前に置いて、しばし眺めてみたとします。

この肉塊はご自身の右腕でしょうか。それともご自身の右腕だった単なる物体でしょうか。切り離された刹那にその右腕らしきものは制御不可能となり、第三者による利用可能性が産まれます。その段階で所有ではなく占有可能な物へと変化していることに留意できるのならば上述の疑問を理解することも可能だと思います。「これは私の右腕だ」と強く主張してみても、第三者が強引に奪い取り食することも可能なのです。咀嚼され消化された右腕は第三者の血肉を構成する栄養素となり危機的状況を脱する契機提供者になるかもしれません。

 

脳死や死体に付随する様々な問題を騒ぎ立てる際、私達は構造域とシステム域での相互の文脈が同じ文脈原理によって語ることができないことを思い知らされます。科学倫理が機能的文脈の観察不可を論拠に脳死を人の死として、死体を単なる有機物と定義・証明できたとしても、心は途切れることなく過去や可能性を現在産出することによって、その後も誰かの死体に対して新しい意味を紡ぎ、思い出を形成していきます。そのためこの慢性化した拮抗関係に会話の糸口を作るには科学が歩み寄るしか術はないように思えます。思想は科学に対して「でも」から始めますが、科学は「他者一般」なく主張から始まる「聞く耳」のない態度をとりがちな無限界な学問であるためです。

両者の和解によって死のコンセンサスができたとしても死後の身体の所有/占有権だけは答えが出ないかもしれませんが、それでも哲学・思想は以下のことだけは主張しておかなければなりません。機能の観察不可を『個の終わり』と同義とする擬制に妥当性があるのならば、いつか私達は自己の死後(未来)へ『想い』を馳せることも許されなくなることでしょう。心自体は本来的に表現不可であることを知らない者に分化した人類社会を描写する権原はないはずなのです。

 

ここで他者支配の欲求の表れでしかないような「遺言」を捨てて次ぎなるテクストを用意できるようになるために、私達が日常語り合うすべての死は条件付きの死、ひとつの相でしかないことだけを確認しておきたいと思います。

 

2006年5月22日
ayanori[高岡 礼典]
2006_春_SYLLABUS