芸術性理論研究室:
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05.14.2007

空間と場

 

「場の空気を読めない人」といわれる方々が多く居られます。たとえば公的メディアを使って、本名・顔写真・経歴・人脈(クライアント)・現住所までをも公開し、有内容な特定的活動を行なう者に対して、個人情報の一切を隠し、活動らしい活動も、独自の切り口らしいそれも一切ない、もしくは公開できない方が、初対面でもあるにもかかわらず、浅薄なアプローチをしたのならば、他者一般の未獲得者として定義され、ぞんざいに扱われても仕方のないことでしょう。広義の匿名主義が公的な場において、対等性を維持できるのは、両者が共に自己隠蔽を順守する場合のみです。それがSNSのように、ある程度まで何度も相互作用を可能とする場であるのなら、尚のことです。いずれ消えるかもしれない管理責任・再現性のない表現者に対し、真摯さは不毛・無益で無用です。この無粋者達が読解できない「空気・雰囲気」とは何なのでしょうか。その空気・雰囲気が存在するとされる場とは何なのでしょうか。

単純に理解すれば、「空気・雰囲気」は「場の文脈」のように思われます。しかし「場の文脈」で十分ならば、礼節なき勘違いの輩は現れ出ないはずです。石膏像をモティーフにデッサンすることを要求されて、おもむろに花の絵を描き始める方が滅多にいないように、構造要素の形式的な配置関係を読み誤る可能性は不問にしても良いはずです。通常私達がそれを「読めない人」とラベリングする際に、その振る舞いを頼りにしている点に留意できるのならば、場の空気とは文脈の規範・原理化であることが分かります。「空気を知る」ではなく「空気を読む」という形容は、その意味で正しく妥当であるといえるでしょう。この空気は知覚・認知するものではなく、認識・判断するシステム域における有機的な空間性を指し示しているのです。同じモティーフを同じフォーカスでデッサンしても上手下手があるように、個体差があることは当然となり、「郷に入りては〜」は相も変わらずに命令形を超えられないことが分かります。そして系としての空間と座標を含む場の関係を整理することができます。

ここでの「空間」は物理的な延長を指すのではなく、複合的な関係の関係があるか否かによって判断されています。「言表空間・批評空間」などといた造語を理解できるように、「空間」とは非単一性を十分条件とする浸透性の高い言葉であるといえます。そのため私達は地(面)のない空間につて独想することが許されるのですが、それは空間が環境を意味すとは限らないことをも意味しています。

それに対して「場」は環境性を必要条件としています。独りで場を構成配置することはできません。場とは複数の産出原理による「複合的な関係の関係」の制作によって、新たにハイブリッドのアプリケーション(空間)を設けようとする「営み」です。一見では単純にシステム[A]の産出項が次回のシステム[B]の部分となるような、相互にプログラムを書き換えあう空間であるかのように思えますが、それが成立した場合、私達は「会話」を失ってしまいます。無秩序な連想による遣り取りを「会話」と呼ばないように、それは議題という共有的な系によって制御されます。場の参加者による発言(産出項)は議題への変数入力ではなく、構成要素の組み込みを意味します。もしそれが変数入力を意味したのなららば、既にある不動の系(ROM)の反応を相互に確認しあうだけとなり、議題がブラックボックス化してしまい、その外挿活動が会話になってしまいます。対峙関係が並列化してしまうということです。不確定な系が集合することによって始まる場に、完成された系が初めから存在するわけなどなく、変数入力やインタラクティブ・アートと称されるものの多くが空想的な誤謬・徒花であることが分かります。

それまでに他者の手によって構築されてきた産出原理を組み換えても前場面と同等の作動が確認される場合、理解の表現となり、前場面の系を指し示さないような項を産出した場合、主張や反駁を意味し、他者の次回の発言(組み換え)・行為を封じてしまう場合、自己の無理解を表現します。このように場とは空間化されることによって他者への到達・伝達期待を指標化していく共働といえます。

 

以上は「構造的カップリング」というミスリーディングな術語の訂正であり、「出会いの継続」を叙述するための用語整理的な緒文になります。その本質が勝手な独話であろうと、コミュニケーションは確かなコラボレーションなのです。

 

2007年5月14日
ayanori [高岡 礼典]
2007.春.SYLLABUS