芸術性理論研究室:
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05.14.2006

暴力と動因

 

私達は暫定的にも意志ある者と認めてしまった対象からの干渉を「暴力」といって非難します。災害による危機を「暴力」と呼ぶ者がいたらそれは諧謔です。ですから「暴力」はいつも行為へと至る理由を問われることになります。しかしその問いに答えられる暴力があったならば、それは暴力ではなく「罰」になります。ですが知的レベルの豊穣性によって、ひとつの理由はその理由を問われることになり無限に遡源され「罰」を見つけることはできません。本来「理由や根拠、原因」とは他者を必要とすることなく自己のみの力でその存在を可能とする概念です。それは「無関係性」を内属しているのですが、そのような自体的存在は不可知です。そのため私達の先輩方は問の可能性をどこかで塞き止めるために、神といった絶対概念、つまり言及することを許さないものを措定して「罰」を脱概念化したのです。宗教の効力が衰退した現代においてはその逆の消極的なやり方をとります。思想を自由化することによって理由を問うことを公的空間から排除して「罰」を自明化しています。

ここで留意すべきは理由のある古典的な「罰」も、それがあろうがなかろうがかまわない現代的な「罰」も第一原因のプレゼンテーションができない「暴力」でしかないということです。理由がないにもかかわらず理由を問う権原を他者へ与えてしまう暴力が行為の本質とされることによって、私達の公的空間はエントロピーを無限に産出可能となり、社会の系がダイナミズムを失うことなく存続できているのです。しかし意志のコードによる他者認識によって暴力概念を保有し続けることにどれほどの妥当性があるのでしょうか。無意味に傷付け合うことが社会の本質であることにこれからもずっと賛同していかなければならないのでしょうか。このペシミズムは生のリアルを排除する可能性を含意しているのですが、ここで述べる生のリアルも、ここまで述べたすべても動因による「動き」といったコンテクスト理論を前提にしていることを反省すべき時期なのではないでしょうか。

心自体は共有不可なので、その形容は共有可能な物理空間に遍在する構成要素を用いた暗喩にならざるをえません。そこから論理段階の部分を「動き」「変化」などといった単語によって説明し始めることになるのですが、その誤読によって同一地平(面)が固められ、第一的なものが流出することになるので、私達はいつまでもどこかに「不動の動者」を措定し続けなければならなくなります。心の有機性を「動き」としてとらえることをやめて、直知的な描写を用意できた時、「暴力」を『暴力』として描かない世界が開けるのではないのでしょうか。

 

2006年5月14日
ayanori[高岡 礼典]
2006_春_SYLLABUS