芸術性理論研究室:
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05.08.2008
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-1.02
私の声・あなたの声
 

私が聴いている私の声をあなたは聴くことができません。同様にあなたが聴いているあなたの声を私は聴くことができません。また、あなたが聴いている私の声を私は聴けず、私が聴いているあなたの声をあなたは聴けません。

山びこを超えた再現力をもつ録音技術を手に入れた人類は、そこにある「自分の声」をも手に入れたかのように思えます。しかし、時系列を同じくして自己は「自分の声」を追跡できないので、それは「相当」以上の意味を成していません。声は聴覚というひとつの感覚器官を前提にしているので、一見では演繹可能な経験項のように思えるのですが、厳密には異なるものになります。声帯の振動が身体構造へと伝道し、聴覚組織全体をふるわせることによって発生する自己身体媒体的な骨伝導による『私の声』と、口元から身体外部へと発せられ、気体を伝道し、鼓膜から蝸牛へと到達し発生する通常の音のひとつとして捉えられる「私の声」は、形式的かつ情報的に同じ言語文脈を伝えようと、声に内属しつつも感覚可能な質・内容は異なります。その理由の探索は無限後退に終わりそうですが、上記は事実として主張可能なはずです。普段は両者混合のもとに自己は『私の声』を知覚・認識しているので、耳を塞いでの発声を含めると、二種類目の『私の声』があることになります。身体構造を除外することはできないので、「私の声」に妥当する三種類目の『私の声』は自己限局的には捉えられません。

ここで重要な声とは、述べるまでもなく、自己の行為に密接し、確かに自己はそれを感じ取っているにもかかわらず、それ自体の表現が許されていない『私の声』になります。その形容は『心』のそれと近似し、特殊な技術を用意・挿入しない限りは共有項には含まれない秘匿です。自己にとって無謬の経験対象である「私の声」は制作・パフォーマンスの際にディレンマを孕みます。ボーカリストだけではなく、日常の会話へと臨む方々にとっても同様です。自己の制作物を鑑賞・観察視点で確認できない「私の声」によるコミュニケーションは、皮肉なことに近・現代技術によって無責任なものとされ、何が「生きた声」なのかの理解を奪われてしまったのです。

発声による自己振動は、発話者自体の強度やボリュームを撹乱創発させる契機であり、表現者が伝えようとする感奮の原初のひとつです。そこに纏いつき内属する声の質も明文化可能な価値をつくりあげていきます。にもかかわらず、表現できない『私の声』は、自己だけが鑑賞できる作品として保存されていくのです。

言語文脈のみに重きを置く方々には『声の質』を描き取ることに意味を見出せないかもしれません。コンサマトリックで議論不可能なものは無意味だという批判です。“ How ”を不問にするは、一流の表現者のようですが、それは鑑賞者のみに妥当する態度であって、他者一般を含み込むプロフェッショナルには当てはまりません。それが「声質」として切り取られ、項目化できるということは、他者にとって規範構成のエレメントとして使用しうるという可能性があり、アーティストにとって捨てられない査読項として数えなければならない必要があります。執筆者にとっての付随物も、ボーカリストにとっては抽象項であるということです。

 

以上は「声と現象(デリダ)」において、現象学であるが故に論外へと配されてしまった部分の指摘であり、自己触知の傍証・批判材料の確保になります。

 

2008年5月8日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008