芸術性理論研究室:
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05.07.2007

習慣について

 

もしも心の形容詞が理性的原理によってのみ成り立っていたのならば、私達の生活空間は著しく円滑性を失ってしまい、通勤や通学にある方々の多くは毎日のように遅刻してしまうことでしょう。朝になり目が覚め、どのように手足を動かし、胴体を支え、起床動作を可能にするのか考える以前に、起床すべきか否か、起床とはなにか、もっと述べるなら、起床一般へと辿り着くかもしれない論証の吟味を用意しなければなりません。たとえうまく起き上がれたとしても、次に選択すべき行為についての考察が待っています。同じように起きてきた家族に対し、どのようにコミュニケーションをとればよいのか、また自分は何をすべきか、自己と役割についての行為形式について考えなくてはなりません。仮に洗顔することに決めたとしても、水を先に用意すべきか、手のかたちを整えるのが先かと、論理的考察がまっていることでしょうし、指先や手の平を具体的にどのように運び、どのような体裁へとフォームすればよいのか周到な計画を立てる必要があります。

日常生活のアクセラレイターを担う「習慣」は社会科学だけが扱うわけではありません。その終局に社会があるのならば、争いの慣習や制度があることになるのでしょうが、そのようなものに出会うことはありません。蕩尽や祭りも無に帰すわけではない再構成への一契機でしかないので、習慣の目論見は相も変わらず個の保存へと落ち着いてしまいます。これは作られない習性と作られる習慣との区別を押さえておけば容易に知ることでしょう。─それが真理であるか否かでななく─破壊の目的論を自然へと含ませることは可能ですが、人為に対して条件主張することはできません。医学にとって死が記述域外の敗北であるように、私達は始まりも終わりも描くことのできない永遠的な永続といったパラドキシカルな線分的な生を強いられています。

そこで、どこからが習慣なのか考察するには哲学的な自己観察を吟味するだけで足りるように思えます。冒頭で示唆していた身体運動について確認してみましょう。とりあえず素足になり、利き足をじっくり観察します。足の指が五本ある方は恐らく一見では何の役に立っているのか分からない「小指」が頼りなげに生えていることでしょう(*)。ここでハンマー等を用いて、この小指の骨を砕いてみます。最初は少し痛い程度だったものが、徐々に激痛へと変わってくることでしょう。薬指とともにテーピングを施し、数日間固定して冷やしておけば、自体的な痛みは治まるはずなのですが、それを幸いに思い、普段どおりに歩き始めると、声を失ってしまうかのような後悔が待っています。「たかが足の小指一本」の損傷で私達は日常的な歩行を不可能にしてしまい、身体運動の手順に関して、日頃の無自覚さを教えられることでしょう。足の運び方ですら、無知であることを知るはずです。

(*)指の数が生まれつき六本以上五本未満といったケースは、それほど珍しいことではありません。ここでは一般性を考慮しつつ、研究材料である筆者の身体構造を例にとります。

そして小指骨折の体験は「作られる習慣」について新たなラインを引いてくれます。この局面は医学的な自律原理による記述対象には含まれません。意図的に呼吸を止めることはできますが、心臓を一時停止することができないように、本来自律神経とは意志による他律性を一切受けないものを指します。もしも心臓に障害を負ってしまった場合、意志の制御は働き得ようがありません。しかし小指骨折は利き足を「かばう」ようにすれば、歩けないわけではありません。つまり歩き方の再構成ができるという理解によって、自律的運動の亜種であるかのように思える「歩行」を習慣的運動の範疇へと収めることができます。足は私達を歩かせるためにあるのではなく、『歩きたい』と思った者が歩行運動に都合のよいそれを利用しているに過ぎません。足がなければ匍匐すればよいだけです。

 

知性は無慈悲なまでに無造作・無差別に前理解である意味内容を創り出していきます。社会内存在から免れ得ない私達はそれらを固定化しなければならないのですが、理性はそれらを全て包含するにはあまりにも狭く設定されています。それは系でなければ理性と呼ばれないためなのですが、それ故に未知の既知化の捏造・改竄が急速し、無理解の知を拡大していきます。それが習慣であり、習慣とは露光済みのロウデーターを指します。

これは誰もが知っているラディカリズムは、誰もが理解しているとは限らないことの初歩的な再確認です。

 

2007年5月7日
ayanori [高岡 礼典]
2007.春.SYLLABUS