芸術性理論研究室:
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05.03.2005

学問の所在について

 

この春、大学へと行くべくして進学、入学された理想的学生の皆さんはそろそろ大学という施設内に学問らしいものなど何もないことに気付かれたことと思います。

皆さんが思われているとおり、現行の大学内で行われていることとは一方向的な教授・講師のパフォーマンスとそれに追従するだけの詭弁論者、無批判・無内容な権威主義者達の付和雷同によって構成されている教会でしかありません。

 

義務教育となんら変わるところのない決定的訓育の場にしかなっていないのです。この批判に対して「ゼミもあるし、学生の作品や論文を発表する場もある」と反論する方もいるでしょうが、それも「大学」「教授」といった限界設定によって、どれほどに斬新で独自性の高きものを主張しようとも、即座に芽を摘ままれるか、前制作的に学生の皆さんが去勢されていることを反省して頂ければ創造や対話の不在に気付いてくれることと思います。

述べるまでもなく大学とは学びに行く場ではなく、新たな学問の大系を創り出す場であり、創造的対話によって確信へと深化させる場のはずです。私が学生だった頃、その似非大学の実情に嫌気がさし「外」にそれがあるのかと考えたことがあります。多くの方々がここで大学を退いていかれるのですが、その先には非学問的な卑しい商人の道しかなく、すぐに間違いであることに気付かされます。

「○○大学へ行けば.....」「○○へ留学すれば.....」「社会へ出れば.....」と「外」に革新(核心)的な何かがあるだろうと期待して「外世界」へと散って行かれる方々の多くが自己を散らして行くだけなのです。

いつか皆さんが「十年前にダメだと思った事や者が、十年経ってもダメだ」と嘆き、つまらない厭世主義におかされないように学問の所在を述べておきたいと思います。

 

学問とは「どこか」にあるのではなく『ここ』にしかあり得ません。『私』は『私』を超えられないが故に『私』でいられることに気付いて頂ければ容易にその真意を知ってもらえると思います。学問は期間限定的に終わりがあるものではありません。それは連続創造と連続破壊の繰り返しによって、生涯をとおして醍醐味を研摩していく『生の分析的総体』そのものなのです。

2005年5月3日
ayanori[高岡 礼典]