芸術性理論研究室:
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04.30.2008
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-1.01
過ぎた春
 

迎えた季節の始まりに気付けても、立ち去る季節の後ろ姿は捉えることすらできません。今年初めて見た息吹の数々を覚えていても、最後に舞い落ちた桜の花びらを受け止められなかったように。経験域にある季節達は、次の季節が訪れ、打ち消しによる定義項が現れることによってのみ、かろうじて終わりを知らせてくれます。別辞なく過ぎ去っていく季節は、いつも結文の判読を許さず、気付いた時には手の届かないところに裏表紙だけを見せます。

一回性を除外した描写論理による季節は、死ぬことなく、再来訪の約束を強要され、原理化もしくは原理の相を与えられます。季節ごとの恵みは当該季節の部分ではなく、その季節が制作した作品とされてしまい、主体期待を受けることになります。初物だった作物類が一時のうちに効用を薄れさせ、枯死の姿を見せたとしても、形容は季節の死ではなく、季節の産物・構造的瓦解のみを意味し、季節自体は概念的保存の中で永続化していきます。ここには広義の科学的システム論が忘れてしまった系がひとつ潜在しています。一般に相互浸透を同義・同一として捉える連続制作のシステム論は、構造を産出しなくなった時点で、組織に系の死までをも描き与えます。しかし季節の系は、瓦解の様相を見せたとしても、死ではなく作動の一時停止を意味し、再活動の可能性がポテンシャライズされ、ひとつの季節は役割を得ていきます。「来訪」の形容は同一季節の追跡不可能性によって詩情化され、私達の手元には「一時停止」だけが批判として残り、季節の変わりない順列に安堵していきます。つまり季節とは断続的連続系であり、「制作できなくなっていく姿」は不可逆の衰えではなく、ペンケースに筆を戻す仕草でしかないということになります。

日時計の発明以来、人類は『時』に稠密な「間」を与え、線形の外延を物理化してきました。それによって社会は個人を黙視したコミュニケーション・ツールを手に入れ、普遍の「時」の枠の中へと、ひとりひとりを当てはめ組み込み社会原理に制御性を与えることに成功しました。そこには、病床に臥せる恋人がいようと、あどけない疑問に思考をめぐらせ続ける学徒がいようと、次の制作に迷う芸術家がいようと、無関係に流動する「時」があり、絶対的な経過批判があり、絶え間ない活動の強要・思想が潜伏しています。クロノスはカイロスを嘲り、必要以上の焦燥と浪費を肯定する淵源として脅威的に浸透しています。

たしかに第一的な原理の形容は、中世からデカルトへと受け継がれていく「連続創造」で良いのかもしれません。「時の停止」という空想は、物理的な時間論において無の完全を意味し、それがあろうがなかろうが有意味ではないためです。仮にそれが真理であったとしても、密接なる次場面を要求するのならば無関係であるということです。しかし、「認識しながら生きていく」私達にとって、それはあまりにも惨く残酷なはずです。「なに」もしていないからといって『なに』もしていないわけではなく、『なにか』をしているが故に「なにか」を行なうことが可能になり、「なにか」の目的が『なにか』にあるのならば、平衡だけが死を意味するわけではないという手法へ、光を再照射するべきでしょう。

 

亡き師を想う春の終わりに、受け止められなかった死への謝辞を刻み直して、また筆を握ります。本年度は上述の断続性を触覚の形而上学へと組み込んでいく予定です。どうぞ宜しくお願いいたします。

 

 

30_APR_2004




2008年4月30日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008