芸術性理論研究室:
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04.30.2007

別辞について

 

出会いは、その操作の困難さによって、ひとつの事件になります。繰り返される相互作用による定義活動の中で、被定義項が生まれることにより初めて一対一のコミュニケーションは形成され、他者を知るに至るので、予め出会う相手の知識があったとしても、一般化されたそれは他者の特殊内容を意味することなどありません。そのため出会いは偶然のものであり、その後の関係維持のみが意図的行為の範疇に含まれることになります。しかし自他豊穣化のプロセスは、有限性の公理によって、必ずどこかで停止・切断しなければなりません。それが「別れ」になります。別れは親しさの中で形式知のみをつくり出すので、それが何を意味するのか無理解であろとも、私達は必ず訪れるであろう必然的な偶然項に対し、常に恐怖と不安を感じなくてはなりません。発生以前の「別れ」は『死』と同様の様相があるのですが、不可知の死に対し、構造域内のみでの出来事である「別れ」は条件次第で可知の種がある点が決定的に異なります。

一時的な「別れ」、絶交的な「別れ」、それらは未来において偶然的に再会するかもしれない可能性を否定排除することはできないのですが、「死による別れ」は残酷なまでに関係破談を絶対化してしまいます。「死別」のみが『もう二度と会えない』ことを確定的に教えてくれる唯一の「別れ」になります。『生きていれば、また会えるかもしれない』という可能の俗語は心的な実様相を知る者にとっては重要な指針的命題です。

心は始まりと終わりを記述域外に含ませる永遠的な永続性の中に、そっと自己を垣間見せるだけの非対称的な自由者です。そのため終点を自己記述できない心は、あらゆる構造的死に関する知を理解することができません。観察された死と、それまでに抽象され構成してきた第二者一般の産(出)原理の有機的な作動停止とを対応的に関係付ける手立てがないのです。対象不在という換言不可能性の中で増大していく他者知は意味内容自体にとどまり、言葉にならない同語反復をただ黙視するしか術がありません。このディレンマが悲しみになります。悲しみは確定的な捨象記述の不可能性によって永続性を保障されます。厳密に言って、他者との出会いによってつくられる知はデザインの対象にならないことが理解できます(*)

(*)ここにはリミックスに関する重要な意義があります。

このどうにもならない情動変化を少しでも平衡させるために、人類史は墓を掘り、葬儀を習慣化してきました。それが擬制であろうとも悲しみを理解し、本当の涙の表現をするために、先人達は私達に解消・脱パラドクスの手続きを用意してくれたのです。そしてこの別離の制度の中で最も大切な項目が「別辞」になります。

「別れの言葉を交わし合う」は別れの構造的共有・相互理解を構成します。死に逝く者が自己死を知っているであろう期待とともに交わす別辞のみが、死者との直接的出来事になるので、死別するものは第二者一般へ停止を要請することができるのです。お別れの言葉を交わせた者のみが、その涙を有意味に流すことができるということです。

 

 

04.30.2004

 

 

本日四月三十日は私(当研究室HP開設者)の恩師の命日です。別辞なき別離を経た私には、悲しみの知ばかりが継続拡大し、理解の涙がありません。

 

2007年4月30日
ayanori [高岡 礼典]
2007.春.SYLLABUS