芸術性理論研究室:
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04.26.2005

月日を数える

 

私達は生成流転しているかのように見える構造再構成の劇中に立たされた鑑賞者です。しかしそのすべては自己の一性が産み出した現象であるために厳密には自己観照者と言わなければなりません。

過ぎていく何かを一秒、一日と数えることは喪失していく自己をこの一瞬へと引き寄せ、確信とともに合一化することによって、かろうじて『私』を維持していくささやかな方策です。それは本来的には素朴で利己的なものです。

 

キリスト教が西暦を定め、物理学が時計で計られた時間を作り出すことによって、さまざまな単位が制度化され、社会統合への利他的策謀に操作されることによって、私達はまるで『私』がそこに在るかのように思い込まされています。

絶対不可侵の大切な思い出も、自己もまるで他者との共通財のように扱おうとしています。これでは必然的に正しい認識理論など身に付くわけがありません。

昨日のように感じる十年前も、十年前のように感じる昨日も、すべて単位によって知られることのない、ただ知る者による過去の更新に真理値が委ねられている自己根拠なのです。

 

非内属項を用いて『私』を謳うは自信なき他信的な非芸術的振る舞いです。自らを真にプレゼンテーションするものは対象なき自己還元的な自身の言葉で身にまとうものです。

 

 

誰かを思い悲しむことが、その誰かを拘束することにならないように、

『私の一秒』が『他者の一年』になるように、

そして私が『私』を忘れないように、

私は今日も『誰か』を数えていきます。

2005年4月26日
ayanori[高岡 礼典]