芸術性理論研究室:
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04.02.2009
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-4.9
乳房の包容性について
 

性愛が俗化することによって劣位へと貶められたせいなのか、繁殖政策による隠蔽の犠牲なのか、理由は様々つくれるにしろ、私達が哺乳類であることは周知のことであるにもかかわらず、その分類法に対して積極的なメタライズは少なく、単なる観察記述による同語反復・全肯定しかないように見受けられます。そこでこのコラムでは前社会と思われがちな母と子を結びつけつつ分化する第三者としての乳房を制作し、ダイアドを社会化したいと思います。これが安易な母子家庭批判と恭順による慰めを無効化する手立てとなれば幸いです。

おそらく感覚器官が未発達な新生児は母との邂逅後、即座に母を「ひとりの人」とは数えないはずです。生得説を斥けつつモリヌークス問題を批判するのならば、臍帯を没収されたばかりの子が直観する感覚世界・知覚環境は、触覚・体性感覚による自己の体勢や、産婆師による抱擁、産湯や湯気の流れ、そして母の肌の肌理とぬくもりになるでしょう。本能的に母乳の匂いを区別しているとしても、臭覚与件は対象性が弱いので、多くを感触に委ねていると想像できます。つまり子が最初期に出会う者・物とは、母ではなく、乳房と母乳の触知になります。唇から感じ取る与件を頼りにして吸啜反射を行い、乳頭を口に含む子の生活は、色・形・匂い・音を知らなくても可能であるため、その抽象世界は肌理と弾性によって構成されているという帰結が浮き上がってきます。

ここで重要な点は弾性と母の腕です。述べるまでもなく、肉の質感は「やわらかさによる弾性」になります。子が母乳を求めて「乳もみ」を行う際に、それは働きます。子による干渉を「やわらかさ」は受け入れるものの、その性質は決して透過的な組織ではなく、明確な構成性を守る構造なので、貫通が禁じられており、やがて「やわらかさ」は「かたさ」へと変わります。行為を受け入れる「やわらかさ」の従属性は「かたさ」によって対等化され、干渉が無条件ではなく、能動的な行為であったことが反省されます。乳房によって押し戻される子は、受け入れている時と自然態にある乳房との形・感触の区別を弾性との攻防から学び、自/他の間にある「スラッシュ」を獲得します。これは「やわらかさ」によって始まるので、截然性のない「幅」になるものの、「幅」であるが故に社会の単位である関係を築くための「信頼」の素となります。自己の挙動を限定的に受容するため、先行的ではないにしろ、気遣いまでをも学びとれます。「やわらかさによる弾性」は接触による対応関係をつくるので、自己の裏返しが他(者)となり、含意期待が部分化され、特化され、現前化されていきます。

通常、子はここまでを母の腕に支えられながら経験します。その腕は乳房と出会うための地(面)でありながら、子の自由へと侵入してきます。抱きしめる母の腕は子を乳房へと圧し、自重を奪うことによって能動性を不必要にしつつ他と出会わせる地(面)であるため、抱擁によって乳房の弾性は現在的な可塑性となり、密なる対応が脱自を構成していきます。背面を支えられながら前方へと延長していく脱自があるため、未分化な全即自批判が可能になるのですが、批判すべきは、原初に混沌があるが故に前節の弾性が「地(面)に立つ私」を指示要求し、創世階梯の概念化に成功し、これから起こることを理解する可能文脈を約束してくれる点です。

 

触覚とは『瞬く闇』です。触知の世界には同一対象が存在せず、新生児はいつも不安です。そのため母は絶え間なく子を抱きしめてあげなくてはならないのですが、開眼とともにその怯えは止み、子は未知なる光をとらえます。触れていた乳房の感触と初めて見る乳房の色・形を、ひとつへと組み立てる構成認識は、全知不可能な社会生活において必須なる乱暴な積分力を育てます。その最も重要な契機は、頭上からの囁きです。子にとって母の顔や声は天上から臨み現れる不可触なる可視体であるため、同一地平に存在する腕や乳房とは異なる他であり、その腕や乳房を所有する者ではありません。ここで子は相当の努力を強いられるはずです。他の動物種と比べ、あきらかに未発達な未熟児として産み落とされる人の子は、母を愛撫できないので、ほんの僅かな与件のみを頼りにして、空と地を繋げ、環境としての母を制作しなくてはなりません。

きっと、この困難は母乳の匂いによる「満ちる間」によって没認識化され、突破されるのでしょう。その「単位間のすきま」を来年度の課題として確保し、2008年度を終わりにします。

2008年度冬期 ─了─

 

2009年4月2日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008