芸術性理論研究室:
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03.29.2006

偶然性の意味

 

伝統的な論理学を背景にすると偶然は恒真命題(トートロジー)とされ、ナンセンスなものとされます。「私は明日、死ぬかもしれないし、死なないかもしれない」「明日は晴れるかもしれないし、晴れないかもしれない」これらは結果がどうなろうとも、その真理値を恒常的に真として維持するので、特に有意味な主張を行っているとは言えません。しかし私達の生活空間にはこのような不確定な命題を並べるしかないような必然的偶然の局面は多々あります。そこでこのコラムでは難解な様相論理学等をもちだすことなく、認識論的に批判することによってその有効性の確保を試みることにします。

結論から述べると、心的システムの閉鎖性・縮減・有限性を前提にした場合、私達に許された命題のすべては「偶然」へと包摂される無意味なものでしかありません。「グラスをテーブルの上から落とせば、それは必ず割れる」という必然命題は『割れるだろう』といった推測が含意されています。また「君は人を殺してはならない」といった当為・命令は対象を確定的に規定しているわけではなく、単なる発話者の希望です。同様に「私は走ることができる」といった可能性の主張も、それによって走らなければならないわけでも、永劫に走ることの潜在的可能性を約束しているわけでもない不確定なものです。命題と対象は不即不離ではなく、対応関係でしかないものであり、叙述の命題は論理先行的ではなく対象からの構造的論理を前提にして構成されます。

上述の主張は未来だけのものではなく過去についての記述にもあてはまります。「グラスが割れた」「人を殺した」「走った」これらの命題群には結果へと至る確定原因が含まれません。原因をめぐる無限後退によって過去における事実描写すら「何故だか分からないけど、そのようになりました」といった消極的な主張レベルを超えられないのです。これを斥けるには「丸い四角」「走りながら歩く」といったカテゴリーミステイクの有意味性を証明しなければならなくなります。もちろん文学的・詩的表現としては成立するでしょうが、コヒーレントであるとは言えません。

 

私達は対象の文脈がたとえ決定的に連鎖していたとしても、そこへと至る地平を同一のものとしないので、いつも到達不可能なものへ幻を押し当てることによって未知を既知のものとして判断しなければならないディレンマを抱えています。それは可能性すら含まない不確定で責任のない記述です。それでも社会を構成しなければならない時、「曖昧な表現」は常に批判対象の筆頭にされてきました。二元的な西洋思想が事実上スタンダード化している現代では有意味なコミュニケーションとして受容されないためです。しかし縮減の記述原理が産出するもののすべてが対象ではなく自己記述の範囲内のものでしかないことに反省できれば、二元論を偶然へと包摂させ、人の脆弱性を知ってもらうことは十分に可能なことなのです。

私はここで全命題の産出原理を偶然の下へと回収しました。しかしそこから「曖昧」を称揚する行為・価値規範を導出することはありません。偶然は古来より自由意志を守ります。自由意志は個人と法社会をともに志向します。コミュニケーションリテラシーを考察する際にそれによって懸命かつ真摯な自/他関係が擁護・構築されていくことを期待します。

 

私達が帰属する社会は偶然的に他者を裁き、偶然的に死を与えることから不可避の「決断と覚悟の空間」であることをここで確認して2005年度を終わりにします。

 

2006年3月29日
ayanori[高岡 礼典]