芸術性理論研究室:
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03.28.2008

意味と意義

 

『意味』を世界の眺望とする方は制度や宗教などといった単語が出てくる以前に、論なき儀式の一切に形骸憎悪を与え、幼少の頃から社会行事の意味不明さに困惑し続けていることでしょう。システム論に依拠したような政治的視点に納得するわけもなく、『気持ち』の命令形に時間や体力、資産までをも浪費させられ、特に内容があるわけでもない拘束に、ねじれねじれた「今」があるかもしれません。様々な表現手法がスタンダード化している現代において、自己開示による制御系の確率は儀式である必要がありません。その有効性の多くが、経済的動因のような消極性へと回収されて、意味なき『気持ち』と間違った『自惚れ』が表面から底面へと蔓延しているはずです。

 

失うわけにはいかない人が亡くなったのならば、ただ独り、そっと悲しめばいい。愛していたわけでもない誰かが亡くなったからといって、その儀式へと参列することは、死者への無礼でしかありません。本来、葬儀とは悲しむ人々の残された『悲しみ』を ─自己清算できない場合に限り─ どこかへ昇華させるための有意義な偽法であって、『気持ち』の強要ではありません。同様に祝ってあげたい人が祝ってあげるための結婚式であり、それに相当する学力と才能、着眼力・論法力・表現力を獲得したが故に執り行う卒業式であることは述べるまでもありません。

私(当研究室HP開設者)が美大生だった頃、卒業式に出席しようかしまいか悩んでいた師の問い掛けに対し、上記と同義の言葉を返し「笑み」を頂いたことがあります。「名を冠すべき作品が創れるようになったら、その時初めて祝ってあげれば良い」と。そして案の定、私も自身の卒業式に出ることもなく、卒業証書すら受け取ることもなく現在に至ります。

 

儀式という構造が、元来『気持ち』の原理によるものならば、それは節ではなく、接続詞でなければならないはずです。しかし、人の「成長」に切り取り可能な場面などあり得ず、多くの儀式が無意味な消光のひとつでしかありません。それを有意味化するには、前場面までに構成してきたものと、次場面へと延長していく要素群とを、原理・産出関係で結びつけなければなりません。その後の意義を約束できなければ、現場面は無為に終わってしまいます。

少なくとも祝いの儀式とは、日取りある集会にあるのではなく、絶え間ない過去把持による現在制作と、継続への越権的な野心によって補完され、卒業は「する/した」ではなく「卒業し続ける」ことによってのみ認められる日常にあります。

取得の手続きに特別な言葉はありません。ただ、初春を自ら纏い続けようと臨む方々へのみ祝辞を残して、2007年度を終わりにします。

 

2008.恭賀新春.Felicitation!!!
When cherry blossoms scatter, let's meet again.

 

2008年3月28日
ayanori [高岡 礼典]
2008.冬.SYLLABUS