芸術性理論研究室:
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03.21.2006

数学的強度について

 

言葉の制度から自由なのか、それとも他者知らずの自己知らずなのか見当のつかない方ほど安易に術語を使いたがり、どのような意味でその言葉を使用しているのか問いただそうと思っても往々にして自己の認識理論すら未定義であるといったネガティブな期待によって関心を萎縮させられ、特別に会話を拡げることなく、その場をやり過ごしてしまうことが多々あります。『ベクトル』という単語もそのひとつです。

「社会全体のベクトルを補正して〜」「彼とはベクトルが違うので〜」おそらく「方向性」といった意味で用いているのでしょうが、使用者が安直な経験論者であると仮定した場合「民族思想」的主張を堂々と行っていることになるので、本来的な意味を知る者は聞かなかったことにしたくなります。初等数学を疎かにした数字嫌いの気取り屋による戯言だと思って無理に自身を納得させるしかありません。言葉は人によって設定された変更可能な規定なので辞書に捕われることなく使用者が自由に定義して良いものなのですが反省的に更新しなければ齟齬が起きた際に修正できなくなってしまいます。

述べるまでもなくベクトルとはその矢印の「長さ」によって不可視である力の内包量(強度)を視覚的に外延化するといった数学から提供された意欲的なアイデアのひとつです。それによって難解な計算を必要とすることなく幾何学の公理のみで万人が力の分解や足し算を行うことができるようになる画期的な概念です。しかし計算やグラフによって導出された様々な強度(速度・温度・密度……)は擬似的に記号化された数学のトリックでしかないものです。「時速30Km自体」を体験して説明できる方が居られるでしょうか。「時速30Km」は自体的に『時速30Km』ですが観察する私達にとっての「時速30Km」とはその前後の速度が文脈的に確認でき、対比することができて初めてそれが「時速30Km」であると主張できるものであって、それ自体を記述しているわけではないのです。連続していなければ「それ」を「それ」として認知することができないものを言語記号のような静的な媒体を用いて記述しようとするとパラドクスが起きてしまうのです。「それ」と『これ』の区別のない認識論によって「ゼノンの矢」は産み出されました。本来、認知と認識は範疇を異にするものなのです。数学の教職に就かれている方々は配給された教則本をただ繰り返すことを止めて、この局面を正しく教えるべきではないでしょうか。

 

私達の社会空間は「思想の自由」が「思想はどうでも良いもの」と解釈されるといった仇やミスリードによって多くの意味不明語に満たされています。思想の不在を嘆く者ほど豊かな前提の下に饒舌で確認のプロセスを設ける好奇心すら抱けません。このコラムで取り上げた「ベクトル」とは方向だけではなく、それ自体しか知り得ない自己内容を含む言葉です。ですから「私は彼とベクトルを同じくする」といった比喩的な命題は「私は彼の全てを知っている。私は彼と同一である」といった主張をその根底に潜ませることになります。言われた側は「あなたは私の何を知っているのですか?」と不愉快に感じることでしょう。

ここで義務教育における思想の再配置を行わなければ、対峙する側は誰と会話しているのか分からなくなってしまう劣弱な大人(表現者)を大量生産する日々の継続に歯止めをかけることができません。

 

2006年3月21日
ayanori[高岡 礼典]