芸術性理論研究室:
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03.20.2007

擬態語について

 

制度化された言葉とは対象の様相を説明するのではなく、また対象を指し示す記号でもありません。言葉は対象構造に浸透するような類種もなければ、ましてやエレメントでもありません。そのため言葉の修辞自体がレトリックであるといえます。言葉はどこにも帰属することなく浮遊しているかのようです。日常私達が独話や対話の際に言葉を使用することによって起こる効用とは意味伝達ではなく、対象に関する内包量創発の契機と期待です。そのため言葉は生まれながらにしての形見といえます。

当然的に、その形見は与えられるものではなく、作り出さなければなりません。言葉の数が圧倒的に少ない時代ではアナロジーなどあるわけもなく、常に未知を既知化する創造的な言語制作を行なう必要がありました。倣うべきものが何もないような世界で発話による表現行為を試みる者の最初に口にする言葉がうめき声にならざるをえないことは容易に想像できることでしょう。対象との出会いに後行して発生する僅かな情動変化を基にして、原・メディアは作られてきたはずです。しかしその場面は未開社会に生きた方々だけのものではありません。それは辞書のある現代に生かされる私達にとっても新たな必要性を生むという意味で有意義なものです。以下にその重要性を知るために、擬態語を手がかりにして、言語制作を体験してみたいと思います。言葉の制度をすり抜けることによって、芸術家や哲学者が観ている世界を垣間みることになり、『人』へと戻るかのように辿り着くことになります。

それでは、鉛筆による静物デッサンを始めることにします。まず目の前のテーブルの上に透明なゼリーとグラス、花崗岩と真綿の塊をレイアウトして、真理実在論的態度に従いながら、見たものを描き出すように素描してみましょう。これは雑念なく網膜上にある映像を忠実に写し取る行為規範を描き終わるまで透徹維持することが大切になります。恐らくこの描き方では、どんなに絵画制作に慣れた方であったとしても小手先の芸で終わってしまい、普段行なっているような質感表現などできないことでしょう。ゼリーの食感、グラスの冷たさ、握りしめた際に手の平に突き刺さる花崗岩の攻撃的な粗さ、その逆に産毛のような真綿のやさしさ等を描き分けることができずに、第三者から理解されないようなものを仕上げてしまうことだと思います(*)。美術教育を受けたことがない方は、この体験を隘路としてしまい絵筆を投げ捨ててしまうかもしれませんが、擬態語の使用によって、この局面をいとも容易く突破することができます。

(*)往々にして科学的視座に基づく絵画制作は人類的真理から懸け離れてしまいます。たとえばカメラオブスキュラを使用したり、片目を閉じて工業製品を描写すると、複眼で見る映像に比べ、パースペクティブがきつくなり、不自然な絵になってしまいます。「そこ」にあるものではなく『ここ』にあるものを描かなければ、絵は『自然』ではなくなります。少なくともデッサンにおいてリダンダンシーは有益なものなのです。

例題のモティーフならば、『ちゅるんちゅるん』『つるつる』『ごつごつ』『ふわふわ』と繰り返し思いながら絵筆を運べば、一枚目の無味乾燥で製図のようなデッサンに比べ格段に上達した叙情的なドローイングが出来上がることでしょう。ここでの擬態語はよく耳にするような様相語でなくてもかまいません。むしろご自分が思ったような言葉を伝わらなくてもかまいませんので、素直に口にすることが大切です。それによって行為と表象を接続するかのような擬態語の記号と意味の両義性に気付くことができるはずです。

この体験をとおして、原初記号は他者による首肯性のたかい自己制御を産みうるものである点を知ることができます。一般的な形容詞は辞書上の外延のみを含むのであって、対象と観察者を往還するような意味自体は含みにくいものなのです。そしてここからグラフィックアーティストの内観を覗き見ることができます。そこで利用している擬態語がすべて触覚情報の代表象であることに留意できるのならば、具象的態度による絵画制作に勤しむ者らは新たな視覚情報制作の最中においてすら、物体に触れているのです。彼/彼女らは前言語/記号素を頼りに目で対象愛撫に成功しています。つまり画家とは視覚から他の感覚情報を指し示す超平面作家と呼ぶことができます。

 

風景とは雰囲気を含む場を意味します。それはそこにしかない唯一の文脈構造を持っています。そのためそれを説明しようとして苦吟しても、教え諭された言葉ではいつも歯痒い想いが残ります。たとえそこをカメラで撮影してみても、情動による操作が加えられていないようなものでは他者の経験しか生まず、共感の場面を設けられません。それではコミュニケーションを意味しないので、表現者側はまた思い悩むことになります。辞書がどんなに厚くなっても、写真機やグラフィックソフトの精度がどんなに向上しても、私達が絵画を捨てられない理由がそこにあります。それが手描きの筆致であるが故に、すべての構成要素(間)に心の冗長性を表現することができるためなのです。

 

2007年3月20日
ayanori [高岡 礼典]
2007_冬_SYLLABUS