芸術性理論研究室:
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03.19.2009
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-4.8
動悸の蠢き
 

身体における内部触覚によって自己直知へと至る契機は様々あります。口内での咀嚼から始まり、食道の通過、胃や腸内での蠕動、便意/排泄、吐き気/嘔吐へと至ります。性差を見てみると、射精・胎動があり、それら蠢きの過程によって直知文脈にも豊かな種があることが分かります。しかしながら、それらに共通していえるのは、どの蠢きも分化可能な他を必要としているため、欺瞞と疑似の批判を排除できません。何かを密に包み込むことによる蠢きは、接触与件と被接触体との間に、「手による握り」を超えた対応関係をつくり、蠢かす能作と不可視なる完全触知によって自己直知を絶対化するのですが、それが密であるが故に自己(客体)化された「何か」が排出された際に、自己の含意体を夾雑物として裏切らせてしまいます。

この部分的な脱自は幻肢とは異なる勝手な論理によって支配されています。排泄物や吐瀉物は、自己の身体内部に潜在していた確かな部分であるにもかかわらず、それが過去になった刹那、もう一度、口に含めなくなってしまいます。行為を拒絶する不快は、過去への憎悪と不可逆を守り、現在を全肯定することによって、脱自的な生の文脈を構成していきます。余談ですが、おそらくスカトロジーといった捨てられない原理は、自己を描かないがための無境界か、想像すらできない第三の理によって支配されているのでしょう。

蠢く物語は「拒絶」によって『振り向けない、思い出せない、選択できない自己』をつくり、また新たに何かを選び取れる自己をつくっていきます。それはシステム構造主義的なので、必ず理解可能な終わりがあり、不動の系を賦活するのですが、内部触覚には終わりのない蠢きによって不安を形づくるものもあります。それが、心拍を知覚してしまう動悸です。血流をつくり、体内のすみずみにまで血液を行き渡らせる拍動は、激しくダイナミックなのですが、日常において積極的な与件対象から外れる自律者になります。神経を筆頭に、意志による支配域内にある自由な存在は、身体を自己化する際にパラドクスが起きてしまう可能性があるため、通常は認識の外部へと配置しています。拍動もそのひとつなのですが、それは理由なく脱エポケー的に前景化してくることがあります。運動後や情緒の変化、健康的な問題による不整脈等、明確な理由があるものもありますが、何気なく感じ取る動悸は、特別に脈拍の変化や心臓・血液類に障害があるわけでもなく訪れ、ひとときの後に、また沈んでいきます。それは見てはならない自我自体による自我自体の存在性の仄めかしのようです。

動悸による蠢きは、他のそれとは異なり、「蠢かされるもの」を必要としません。観察的に血液というマテリアルを介在させてはいるものの、内部触覚的には拍動のみを感じ取っているはずです。そのため動悸は物語にならず、一般的な脱境界のエクスタシスを意味しません。それは律動的な振動によって自己を打ちならし、強度・ボリュームの相互含意を集束させる純粋なる自己・自我への畏れです。

ここに原初ヌミノーゼのソースがあるとするのならば、あらゆる神秘主義的な誤読を理解し、かつ、断ち切ることも可能かもしれません。

 

2009年3月19日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008