芸術性理論研究室:
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03.13.2006

音楽的/ダンス的

 

マトゥラーナによる職人の配置のみによる自動建築の比喩をご存じの方は多いと思います。必要な職人を必要な箇所に必要な人数を配置するだけで、図面といった目的の共通了解がなくとも個々の職人が面前する局面に対して自身の本分を遂行するだけで家は建ち上がるというものです(*)。これは生命系の自律性を説明する際に用いられたイメージであり、河本英夫によっていたる箇所で引用されたもののひとつです。それは規範的可塑性を期待させるものであり、20世紀後半に創られたイメージ・シェーマのなかでもっとも優れたものとしても言い過ぎではないかもしれません。

(*) H.R.マトゥラーナ/F.J.ヴァレラ[1970,1973,1980] 河本英夫訳 「オートポイエーシス」国文社1991 235頁以下。

なぜならこれはアダム・スミス以来の幻想(見えざる手)を微塵に破壊するかもしれないラディカリズムだからです。部分は意味論的に自己の位置を知らなくとも、または統合原理がなくとも「全体」を構成する系は自動的に組織されることになります。これは位階秩序を必要とすることのない社会像を提供する革新的な論拠になりうるものなのですが、これをマトゥラーナ/ヴァレラの脈絡に関係することなく行為規範的に応用しようと試みるとすぐにこの比喩がシステム論の術語でしかないことに気付きます。『職人』の比喩には通俗的な目的論が介在しないために初めから成功/失敗の概念がないので何を行おうとも全体構成に妥当させることが可能なので実践規範へとはそのままの形で利用することができないものなのです。そこでマトゥラーナ/ヴァレラから離れ、より実用的な社会空間における部分/全体の概念的把握を可能とするコードの考察してみたいと思います。それがこのコラムのタイトルである『音楽的/ダンス的』という区別です。以下は社会的構成者であろうとする際の行為コードのアイデアの提供になります。

 

複数の人数によって催される現代の音楽やダンスのライブパフォーマンスの多くは指揮者も譜面もないままに個々のパフォーマーは自身の局所視野のみに基づいて全体を構成する部分であることに成功しています。それはまるで超越視点を得ているかのように。しかし音楽とダンスでは決定的に視点が異なります。音楽は他者の演奏を「聞く」ことによって常に予定された譜面(シェーマ)と自己を照らし合わせることによって、その場面における自身の位置を知ることができますが、ダンスにはそれができません。ダンスを構成するには延長的な情報を必要とするので聴覚情報のみによる自己配置は不可能なのです。音楽は自身がステージ上のどの位置にいようと他者の演奏を耳でとらえることができる限り、何らかのアクシデントや変調があろうと臨機応変に対応させることが可能でしょうが、ダンスにおいて自身の死角で起きる事故は過ぎた出来事として出会うまで知り得ようがありません。

ここで非距離的に他者情報を得ることによって自己を全体の部分として投企することができるものを「音楽的構成者」、いかなる情報も得ることなく自己を全体へ組み込むことができるものを「ダンス的構成者」と呼ぶことにします。前者は絶え間ない全体プロセスの変更に対して相対的に自己の行為プロセスの再構成を確定的(経験的)に可能としますが、後者は無媒介に自己を構成要素化することができる知的悟性を必要とする超越論者ということになります。

 

私達はさまざまな社会プロジェクトの参加者になることから逃れることができません。それは企業で行われているような営利目的なものから、何が目的なのか見当もつかない普遍概念的な理念活動までと諸々あります。それが明確な企画書や図面の存在する活動ならば音楽的構成者程度で事足りるのですが、常に他者との相対関係を知ることができるものばかりではないので、そこに甘んじるわけにはいきません。再構成のタイムラグが許されないこともあるでしょうし、予測不可能な自己原因的な失敗が枷となることもあるでしょう。

ですから私達は常日頃からダンスを踊れるように自己指揮化する必要があるのです。もちろんこれは多くの社会理論と同様にすべてが万能人であるといった前提がなければ首肯できない穴だらけの主張です。

 

2006年3月13日
ayanori[高岡 礼典]