芸術性理論研究室:
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03.12.2007

差別と区別

 

平和という統合思想が発明され、人類という普遍概念が万能であるかのように誤解されて以来、一般に侮蔑の終点が個人へと辿り着くような思想表明を「差別」と呼び、現代に生きる私達の公的空間はそれを排除しようと必死です。一部の楽観的な科学者達は今日もポリティカル・コレクトなどといった記号製作に勤しみ、先行的な思想操作成功を確信し、ほくそ笑んでいることでしょう。

述べるまでもなく、差別とは価値内容を内包するものとされ、ひとつのものを複数に分割するだけの区別とは異なる狭義です。それは可能性の昇華を意味し、態度の強度までをも含むため、会話の拒絶を招きやすく、反社会的といえそうです。私達はコミュニケーションへと臨む倫理を前提としたニッチを形成しているので、「断絶批判」は当然的な妥当性があるように思えます。構成要素の前・素である個人への排撃は始まりと継続を摘み取ってしまうため、差別批判には相も変わらずに正しさがありそうです。

しかし、差別の実様相は一般理解の基にある「差別」にどの程度当てはまるものなのでしょうか。本当に差別はコミュニケーションの可能性を没化するようなものなのでしょうか。本来「差別」とは好意をも含むコードであることをいつの間にか忘れてしまい、意義ある他者を褒めることすらできなくなってはいないでしょうか。区別はそれに代換しうる讃辞なのでしょうか。事実を記述する肯定文は人と人との相互作用を意味するのでしょうか。

結論のひとつを述べるのならば、現代における「差別」とは平和という空想思想が産み出した誤謬です。軋轢や齟齬が一切ない広義の平和とは要素間の関係内容が等質化した「組織」としての系を意味します。システムは自ら自己を脱純化しなければ、動因を産み出せず、生も他者もない絶対の箱の中に閉じ篭ってしまうので、平和という自己平衡は人類至上による死の世界になります。私達の日常の多くの場面展開が他者へ向けての批判や満ち足りないといった自己係争を理由に移り変わっていくことをここで思い起こせるのならば、妥当な政治原理は行為的関係の最適化ではなく、敵や争いを如何に確保していくかに重きをおいたものにすべきなのです。

平和という平衡系は強度が中立化してしまうために座標なき空間を作り出します。構造を必要とする差別は当然的に含まれることなく、そこには区別の区別である純粋コードのみが行為の原理に成らざるをえません。しかし価値概念なき区別は選択の可能性をすべて等価にしてしまうので意図的行為を産み出しません。それは没行為や野生しか招かない非人類的な原理であり、私達の法社会にとっての記述対象には成りえません。たとえば人の話を聞くだけ聞いて、自身の意見を発しようとしない寛容者は他者へ向けて個の同定基準を与えないために「良く分からない人」で終わってしまい、アプローチの積極性を相互に失ってしまいがちだと思います。区別は八方美人のパラドクスを招来し、自己を隠蔽し続ける疑似社会の原理といえます。

私達は言及を拒否し続ける価値概念を持たなければ、あらゆる関係を失ってしまう空間に生き、生かされています。どこかで差別表現をしなければ『他者が知りうる私』がいなくなり、動くフィギュアと変わらなくなってしまいます。ですから差別の差別はナンセンスであり、それは決して根絶への対象ではありません。問題は差別行為を繰り返していく生の最中において、捨象項を自ずと拾い上げ、自己批判し、議論の俎上へのせる力のなさや、覚悟や自覚のない表現/コミュニケーションを継続していこうとする現行社会の未熟さにあるのです。

 

2007年3月12日
ayanori [高岡 礼典]
2007_冬_SYLLABUS