芸術性理論研究室:
Current
03.05.2009
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-4.6
地平(線)と海(面)
 

建築・建立物に囲まれている時代、砂漠のない風土に生まれ育つ者の幼少期における世界観には、行動可能域に対する執着が著しくみられる場合があります。仮に戦争等による業火によって、本来的な大地を取り戻せたとしても、その延長上には地平(線)ではなく、山々がそそり立ち、取り囲み、行動を制限すると同時に、空と分つ稜線によって拡張を仄めかされ、『あの頂の向こう側には、何があるのだろう』と馳せ続けることになるでしょう。当然、そこを「終わり」として描き、満足してしまう者もいるでしょうが、視覚を働かせ、「いま自分が立つ大地と繋がっている山々」として描く者には、物の背面期待が概念化され、山々が限界化され、頂が臨界化され、超越可能性が懐念されうることになります。ここで近現代的な経験科学による知識賦与は、未経験や事実的な経験の困難性によって確定力を与えられず、宗教的主張と変わらないものとなり、むしろ逆に不安材料になってしまいます。

もしも地平(線)に包囲された土地へと産み落とされ、叙述即原理化に成功したとすると、人は情報化された大地・テリトリーに固執することなく、地に「私」を観ることなく、遊牧すらない完全垂直の生を構成していくかもしれません。しかし、ひとつの「ひずみ」も「さえぎり」もない世界にある地平(線)とは、見てはならないものの筆頭になります。なぜなら、それは「地(面)の輪郭」を意味してしまうためです。日常において誰もが視覚経験する対象の輪郭は相対的な関係による自己への秘匿であり、移動によって連続かつ無限に変化していくものになります。うつりゆく輪郭は握る触覚との共働によって、非同一でありながら対象の同一性・一個性の定義文豊かに文脈化すると同時に、「私」の移動・距離を描きます。その営為は消失点の集束によって観察者を「一なる主体」として保証しながら、非自己に自己を含意させるのですが、それが見渡すかぎりの完全なる地平(線)になってしまうと、消失点はとどまることなく遍在化してしまい、自己が裏返り、活動が行為化せず、主客没却の脱自へと至ってしまいます。どこまで歩こうが、どこまでも変化のない地平(線)は地(面)の輪郭でありながら、地を地球化することなく、生も死もない絶望となることでしょう。

どのような種の認識論であろうと、それが単位によって構成されているのならば、把握すら不可能なものへの手出しは禁忌となり、私達は根拠なく根拠をつくり、節を求めます。そのためビルディング群に囲まれた生活は幸福であるといえます。地はそれらの間に沈み地(面)化し、「私」と対象を繋げ、作っては壊し、壊しては作りと、生そのものを約束してくれます。しかしながら事実的に壊せない山々は憎悪と矮小化の担体になりやすく、生の先をゆがめ、盆地は人を狂信へと誘いがちになります。

そのような絶対制約から逃れられない風土を、ほんの少しだけ救ってくれるものが海になります。水の性によって海原は激しく表情を変え、その上に足を乗せることを禁止します。まったきものであるかのように海は広がっていくにもかかわらず、侵入者は垂直に固定され、繋ぐ関係を絶たれます。海(面)は接触把持を拒み、水平(線)は絶対化します。それは繋辞の純化を意味しながら、外部への可能性のみを期待させます。裸の接続は日常における対象群が限界であるとともに臨界であることも教え、突破への懐疑を孕ませてくれます。山から逃れ、海と邂逅する者は、地(面)から海(面)へと流れていく漸次的な階調変化の中で、地に足を付けながら、視覚認識論を茫漠化されるので、絶望なく絶望を知り、宙吊られずに宙吊られ、アイディアのみを持ち帰っていくことでしょう。造船を企みながら。

 

2009年3月5日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008