芸術性理論研究室:
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02.25.2006

ボランティアとはなにか

 

一時期、高校生の内申書の項目のひとつに「ボランティア活動」の有無が含まれていることに巷が騒いだことがあります。ボランティアとは自主的な利他的活動のはずですが、そこに打算性が見出される場合に主張される、その「ボランティア」とは如何ほどのものなのかという問題です。行為による結果主義者は「それでも人のためになるのだから良いことだ」と主張しますし、古典的な主体主義者は「ボランティアに報酬があるなんてけしからん」といって頑なまでに原定義に固執します。ここで「ボランティア」という言葉の意味を再確認し、それが人の性に見合うものなのか考察することによって妥当性あるものへと再定義したいと思います。

ボランティアが含む第一の本質である利他性とは単なる「他者への利益」ではなく、利己性の一切を排除したものです。そのためそこに「自己犠牲」を見出しやすく、メランコリックなドラマを好む方々には美しく見えることになるのでしょうが、利己性がないということは自己行為に『自己』を含まなくなってしまう点に留意する必要があります。それは反省することのないライブパフォーマンスであり、自己に帰属するものを他者へとプレゼンテーションできない戯れと同義であるということです。

そもそも私達は『私』を超えることが不可能であるがために『私』でいることができ、また他者へとアプローチすることが可能な存在であるにもかかわらず『私』といった第一起動因を捨てて如何にして他者のために働きかけることができるというのでしょうか。

ここに現代社会が産み出した誤謬のひとつがあります。無反省的であるということは行為判断を含まないことになるので悪行に加担しても、そこで得られるものが他者の利益追求に徹しているのならば「ボランティア活動」であると言えてしまいます。また通俗的な「利他性」はコンセンサスに含まれるものであり「自主的」が含むような先行判断ができるようなものではない点も見落とすわけにはいきません。「善かれと思ったことが相手にとっては迷惑だった」などということは頻繁に経験すると思いますし、逆に偽善者による恩情の押売りに困り果てている方も多いことでしょう。

そこで「ボランティア」に「反省性」を必要条件のひとつとして含め、それを「ボランティア的行為」と呼びたいと思います。一般的に反省を含めると善意達成による快楽報酬を批判されるかもしれませんが、人はどこまでも利己的であるがために他者尊重が可能な存在であることを知って頂きたいと思います。

そして真に論じあうべき残る問題は善意と他者の利益とが即したものであるか否かを確認しあう社会的評価形式を文脈的に確保する方途になります。つまり「ボランティア」とは相互作用の結節点を扱う科学的視野をともなって初めて完結する学際的なものなのです。

 

2006年2月25日
ayanori[高岡 礼典]