芸術性理論研究室:
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02.17.2006

「ひきこもり」とは誰か

 

定職に就くことなく、人目を避けて部屋に閉じこもる都市生活者をいつからか「ひきこもり」といって揶揄します。家族とすら顔をあわせることなく独り自室で何をすることもなく日中を過ごし、食事を運ばせて、外出は夜間にひっそりと出かけます。

普段、分業思想に支えられたスペシャリストの群れを形成しているにもかかわらず一般的な社会活動による生産性がない者を「ひきこもり」といって問題-化する多数者によるパラドクスをここで指摘するとともにこの言葉をより有意義なものへと再定義したいと思います。

「ひきこもり」を単なる消費者として批判する者は他者へと矛先をむける以前に自身が採択・賛同している分担による経済原理の系を捨てなければならないことを知る必要があります。「ひきこもり」は自給自足していない以上、それは社会内活動者であり、消費によってネゲントロピーを作り出す重要なコマのひとつなのです。そのため通常おこなわれる行為論的な批判は普遍的に妥当性あるものではありません。

そもそもの初めから活動の縮減性を批判することが人の性に反したものです。引き籠ることを差別しても私達は人類知らずのモノマネ上手になるばかりでしょう。ここで批判者達は神にでもなりたいのでしょうか。『神』とは信仰や準拠する「対象」ではなく素朴なレベルでの『人』を知るために措定された、その対蹠に位置する超越概念でしかないものです。つまりひきこもり批判は人類否定へと連接していくことになるのです。

是が非にでもこの言葉を守りたいのならば、行為ではなく、精力的に社会貢献しようがしまいが、確かな教養に裏付けられた独創的な見識の創造力とその表現力のなさによって模倣・惰性に終わってしまう「自己の生」を見出せない凡夫の処世術といった意味内容的なレベルでの批評語として用いるべきでしょう。

 

私達は引き籠る(縮減する)ことによって記述原理を作り「自分の言葉」を創ることに成功し、逆説的に引き籠もらない存在になることを忘れてはなりません。

 

おおくの「ひきこもり批判」が有職/無職のコードに依拠していた事実に鑑みれば、それが自己犠牲の本意を必死で否定・隠蔽し自己肯定しようとする幼稚で野蛮なマジョリティーパワーの行使のひとつであることは容易に知るところでしょう。

 

2006年2月17日
ayanori[高岡 礼典]