芸術性理論研究室:
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02.16.2007

配置と構成

 

日本の芸大美大のデザイン科を目指して研究所(予備校)へ通い始める受験生らは「デッサン」と同時に「平面構成」「立体構成」という言葉に出会います。それらは主にポスターカラーやアクリルガッシュのような不透明絵具、ケント紙、油(水)粘土等を画材として、さまざまな雑貨や植物、またはアブストラクトなテーマをモティーフにして任意の作品を仕上げるような課題を指します。既存の工業製品をテーマとして手渡されても、決してそれを「配置」とは呼びません。その違いを知らない初心者は与えられたモティーフが行動規制になり、不自由な作品を作ってしまうことでしょう。

何かを「つくる」という行為相は芸術家だけのものではありません。作業をこなすだけのような会社員の方であろうと、坦々と家事をこなす専業主婦の方であろうと、「つくる」ことから逃れることはできません。そこで、このコラムでは制作の際に誰もが利用可能な原アイディアのひとつである配置と構成の区別・理解を提供したいと思います。

適材適所を理想にして人事の役職に就く方々は「配置換え」というように、構成者ではありません。それは既にあるポストへ駒を割りふる「ぬり絵」のようなものです。配置とは先行する形式に与えられた種々の動因エレメントを並べることによって、システムの作動史を最適へと導く疑似制作的な作業行為を指します。それに対して構成には与えられる系もエレメントもありません。「目玉クリップ」を平面構成のモティーフとして提示された画学生が無操作にクリップの絵を仕上げ、提出したとしても、それは模写であって構成などではなく、講評会の際に採点対象から外されてしまいます。「目玉クリップ」を既成単位から脱純化して、総体化することにより、要素剔出の微分過程を経て、任意の系へと再統合しなければ、「構成」とは呼ばれないのです。配置には操作不可能な被定義項がありますが、構成には「何もない」点に留意する必要があります。一見すると、モティーフが絶対準拠を担っているかのように思われる方がおられるかもしれませんが、それ自体は構成要素ではなく、要素の母体になりうる前可能性でしかないことを知らなくてはなりません。例題の「目玉クリップ」ならば、力点である目玉部分、作用点であるクリップ部分、支点であるバネ部分が大きな構成要素になりますが、それ以上の微分ができないわけではありません。そこには半無限的な射影相があり、クリップの素材が写し出す、質による表面相があります。そのため目玉やバネ部分の肌理が魅せる独特なハイライトや重曲線に気付き、操作・構成へと反映できる画学生がいれば、それに気付かない者もいるといった個体差が産まれます。構成という問いは系だけではなくエレメントから作り出さなければならないために、モティーフがあったとしても前提なき創造的行為の亜種として位置付けることができるものなのです。

そして構成が創造性を内属するという帰結は「配置」について新しい理解を産むことになります。構成を試みる者は「何もない」が故に、地(面)の制作を行なわなければなりませんが、配置にはその必要がありません。地(面)のなき空間に自己(プログラム)は産まれないので、前者は自己を前提とした超越視点を原理として要求されるのに対し、後者は超越(論)性を必要条件として求められないので、自己地(面)をスライドさせることが可能となり、制作物に自己を包摂することができます。「既に立つ者」である私達は既にある社会を構成することはできないかもしれませんが、無造作な放擲すら含む「配置」というアイディアを行為規範として利用することで、自らを投企する場の拡張を可能とすることができるはずです。

「配置」は私達の素朴な超越(論)性を刷り込まれることなく、正しく自ら架橋する手立てとなることでしょう。

 

2007年2月16日
ayanori [高岡 礼典]
2007_冬_SYLLABUS