芸術性理論研究室:
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02.09.2006

淘汰と選択について

 

私達の生活空間内に目的論をなくしてしまうと多くの方々が活動や思考を停止してしまうことと思います。プロジェクト性がなくなってしまっては人は今現在なにを行えば良いのか分からなくなってしまうことでしょう。ワーカホリックだった退職者が鬱や死を産み出すように。「生き甲斐」という言葉は他者追従的で未来言及的な目的論の本質を形容するとともに、それが世俗の一般動因として採択されていることを示しています。目的内容が利己的であろうと利他的であろうと「目的自体」が形容性・観察可能性あるもののため「相互支配による自己制御系」では統合原理のひとつとして役立つことになります。

自然空間から「人」を分化するために先輩方は『人類と社会』を原目的として設定しました。現代に生きる私達も当然のように訓育され信仰させられています。それは目的論に賛同できない者は外部へと弾かれる時代に生かされていることを意味します。しかしそれがイデオロギーの認識原理として装備されることによって世俗の多くが素朴な事実認識すらできなくなっていることをここで知る必要があるでしょう。経験科学であろうが哲学・思想であろうが現代における学問域で目的論を謳う者は醜悪な素人として追放されてしまいます。

 

マスメディアの経済欄を覗いてみると、未だに「市場淘汰」という言葉に出会います。本来「淘汰」とは必要/不必要を行為以前に直知・決定することによって開始される目的遂行的な選択活動を意味するのですが、これも滑稽な社会現象のひとつです。

この言葉が世俗へ流布する契機となった最大の事件はダーウィニズムの"natural selection"を当初「自然淘汰」と訳してしまったことにあります。知的コンプレックスの強いわりにスノッブでい続ける者には学問営為による産物は「絶対」として無批判に受容されてしまう傾向にあるので未だに使用されることになっているのでしょうが「淘汰」などといった言葉は現代の学問域で用いられることなどありません。

そこに生きている者が自然環境による一方的な目的充足によって受動的に生かされているとするのならば、何故に生物が存在したり/しなかったりするような環境があるのか、その事実認識ができなくなってしまいます。生命体は自己と環境の相互関係の結果として偶然的に存在するに過ぎないので、現代では"natural selection"を中立的な意味を込めて「自然選択」と訳します。

これは市場淘汰にも該当することです。マーケットは用不用説的に自身とって有用性ある商品やサービスだけを選びとっているわけではありません。偶然的な選択圧と選択原理の接点を選ぶこともあれば、市場調査のために欲しくもない「作品」を購入することもあるでしょう。また私達の有限性は最適判断を含むことがないので、リピーターによる選択の継続も淘汰を決して意味することがありませんし、そもそもの初めから連続創造といった文脈性に定点を求めようとすること自体が前提違反であることを知る必要があります。そのため市場による選別現象は提供者と消費者によるトップダウン/ボトムアップ的な相補的知的営為などではなく「何だか分からないけどコレを買いました/売りました」が基底にある遊戯と変わらないものなのです。関係を単位にした「社会」という概念を設定した刹那に私達は『主体』を放棄したことを忘れてはいけません。

 

資本主義は消費者といった第一原理を含まない蒙昧を産み、擁護、育てなければならない系であるため『人類』を正しく描けない言葉を作り出したことを知るとともに、目的論は生活空間でのみ有効な俗語であり、理論至上や学術用語は万能ではなく、いつも条件付きのものであるという基本倫理を前回のコラムに続いて確認しておきたいと思います。

 

2006年2月9日
ayanori[高岡 礼典]