芸術性理論研究室:
Current
01.08.2006

充足について

 

架空のお話です。

『穏やかな日差しが射し込む休日の昼下がり、食後のお茶を頂きながら勅使河原さんと佐藤さんはゆるやかな会話の時間を楽しんでいました。ところがしばらくすると二人は激しい口論となり、勅使河原さんは佐藤さんをおもいっきり殴ってしまいました』

ここで多くの方が「勅使河原はなんて悪いヤツだ。暴力をふるうなんて人としてやってはいけないことだ」と避難するかもしれません。

『しかし佐藤さんは特別に怒る様子もなく、その後も勅使河原さんと楽しそうにお喋りを続けました』

なぜなら、格闘家のような体格の持ち主だった「佐藤さん」は、小学校にもあがらない「勅使河原さん」のかわいらしい少女の拳でどの様に殴られようとも『痛く』はなかったので、その事件をことさら『問題化』する必要も感じなかったためでした。

これが私達が日常当然のように経験する言語形式を用いての行為の観察記述と当事者にしか分からない自己産出的な意味内容や価値といった自己記述との補正不可能な絶対的な「ズレ」になります。

たしかに殴られれば誰もが「痛い」かもしれません。しかしどれくらい痛くて、どれくらい継続するダメージを与えられ(産出し)、どれくらい心に痛みを感じるかは第三者の描写構造には決して含まれることがありません。もしここで記述した外延に記述した内包量(強度)が含まれたとしたら、価値の相違・相対の事実描写ができなくなってしまいます。それは死者を目撃した刹那、死の描写を辿った刹那に観た者が死ぬことになり、また容易に死を与えることが可能になることをも意味します。つまり外延と内包を連動するものと判断することは自/他同一を意味するパラドクスなのです。

世俗倫理観において「他者の痛みを知る」ことは良いことのように謳われます。これは20世紀初頭にフッサールが概念化したような『感情移入』といった内属機能を用いて、自己を他者へと投影することによって他者を創り出す『推理』でしかないものです。自らの限定された既知を駆使することによって他者を制作することは必要なことですが、そこからの確定判断はコミュニケーション・プロセスにおいて次回の場面を了解して迎えられなくなってしまうという素朴な確認をここで行っておきたいと思います。

 

2006年1月8日
ayanori[高岡 礼典]

 

他者は永劫に自己の手を擦り抜ける自由者です。それは到達不可能な超越者であることを意味しています。

 

面前での他者の微笑みは自他を切り裂くスラッシュなのです。差し伸べられた手は自己に触れることなく空(くう)を愛撫します。それでも誰かを愛さなければならない時、どうすれば私達はそれを許すことができるのでしょうか。乞い祈る想い自体が間違いならば、昇華の方途をどこへ求めれば良いのでしょうか。

許すことができないがために「残酷な償い」を人類は数えきれないほどに作り出しました。でもそれが更なる憎悪を作り出していることに私達は気付く必要があります。『許す力』のない者に罪や罰を口にする権利はありません。

 

2006年1月8日
ayanori[高岡 礼典]